2011年11月21日月曜日

小沢竹俊(在宅クリニック院長)   ・看護ケアで社会を変えたい

小沢竹俊(在宅クリニック院長)    看護ケアで社会を変えたい
1994年ごろ ホスピスはまだ日本ではあまりなかった  日本に10ヶ所あるかないかの時代
5年前に独立 ホスピスに入れる患者さんが限られている 
癌もしくはエイズの患者さんしか入れない 
心臓が悪い、脳梗塞、神経難病である そんな病気で
終末期であってもホスピス病棟に入れない がんであっても全員入れるかと云うとそうではない 
入院が出来ないで終末を迎える人がいると思います 
何故この病気の患者さんだけがこのサービスが受けられないのだろうと思った時にこれは地域に出て
実際にそのホスピスと同じように最後その地域で迎えたいその人の為に働きたいと思った

日に日に弱って行く患者さんと如何向きあったらいいのか判らない
 医師もしくは訪問看護 或は介護を担当するケアマネージャーさん 或は福祉関係の人達
に是非学ぶ側を提供したい  クリニックは100人を入る研修室を備えています  
終末期の人達に対する対応の研修を行っている
他の地域の医師や看護師等の人達の支援をすることもここのクリニックの役割だと認識し、 
その思いで少し広めのテナントを作り空いた時間で研修をおこなっている
研修は→患者さんから学ぶ 良い援助が出来たのかと振り返りそれをしっかり見つめ直し話し合う
場を大事にしている

毎回50人の人達が集まって勉強会をしています  現場で悩み苦しむ人が多い 
特に一人暮らしのお年寄りが 今は希望があれば最後まで一人暮らしでありながら
自宅で過ごすことができます 最近はそういう事例を振り返りました 
最後の瞬間に立ち会う事は経験があるかも知れません
自宅で最後まで迎えたいと言う患者さんは増えていますか?→増えていると聞いています  
医師や看護師だけではなく地域で生活を支えて下さる介護の方に
例えお迎えが来るかもしれない状況であっても逃げないで係わっていただけるような仲間が
必要なんです

それは決してたやすいことではありませんが適切な症状緩和、適切な予測指示 
いくつか薬さえ工夫すれば例えお迎えが近くても痛みで七転八倒することはない
段々と歩ける患者さんが歩けなくなったり 段々トイレに行けなくなったり くるしみは避けられません  
段々と眠くなる時間が増え やがて深い眠りの中で静かにお迎えが来る
その様子を何回か経験する中で、あっこうしてこうして穏やかに一緒に最後を迎える事が出来たと
するならば それは大きな経験になるだろう
その様な仲間を一人でも多く育てていきここのクリニックだけではなくて それぞれの地域で例えその
終末期であっても係わって下さる仲間が増えたらいいと思いここで活動しています

苦しみとしてどんなものがあったのか 支えとしてどんなものがあったのか 
そして係わりを通してその患者さんや家族の支えが出来たのか
そこに意識を当てそれが出来たかどうか さらにもっと工夫をすれば出来たのか 
そういう振り返りをします
「選ぶことができる自由と云う支え」(家に居たいか 病院に居たいか等) ・・・基本的人権の考え 
 居たい場所に居る事が出来る ・・・これも「支え」です
定期的にお風呂に入りたい 訪問入浴と言ってお風呂を専門にするかたがお越し頂きお風呂に
入れて下さる      
それは単なる訪問入浴ではなく 
その人のお風呂に入りたいと言う事を選ぶことができる「支え」を強める援助と考える

支えを強める事が出来るのは医師や看護師や薬剤師だけではなくて その人の支えを出来る
介護であり家族であり 小さな看護ですらその人の支えを強めるならば
それは立派な援助者ですね 
逆にどんなに知識と経験と資格があってもその人の支えを奪うようであればそれは本当の意味
で援助者にはならない
クリニックの大事な思いとして 仲間を増やしたい そんな思いがあります  
これから社会に出る若い人たちにこの仕事の魅力を伝えたい
看護ケアの問題は単に痛みを和らげるだけとか 看取る事ではないんです

看護ケア最も魅力的なのは例え治すことができない苦しみを抱えながら人は自らの支えに気が
付く時にこれからを生きようとする力になる 
これは子供から大人からお年寄りまでの共通のテーマだと思います  
看護ケアの最も大事なエッセンスは苦しみを抱えながらも人が生きることができると言うテーマなんです
つまり終末期は例え病気を治すことはできませんが その人の支えを気が付く時 苦しみを背負いながら
も例え間もなくお迎えが来る事が判っていながらも今を穏やかに生きる可能性が見えてきます 
そのエッセンスもこれから社会に出てゆく子供たちにも当てはまるんです 
私達の人生は決して平たんではありません どんなに努力をしても 例えば試験に落ちる 
試合に負ける 失恋をする 何故自分だけこんなに苦しむ そう悩む

子供たちは少なくないかもしれない 例えどんなに辛い苦しみを背負ったとしても 
その苦しみを通して今まで苦しむ前には気が付かなかった自分の支えに
気が付く時なお今を生きようとする力がある  
どんなに辛い事苦しい事があっても人は自分の支えをしっかりと育む事が出来る時今を生きること
ができます
そしてその思いを持った時 社会に出る子供たちがただ単に自分だけが良ければいい 
そんな大人にはなってほしくない 
将来は苦しむ人の為に力になりたい そんな思いを持った子供たちがこれから増えてくれたらいい
なと そういう思いがあります
苦しみは病的、精神的、金銭的といろいろ苦しみはあると思いますが→小学生の3大苦の一つ
 朝起きることが辛い 宿題が辛い 花粉症が辛い

「苦しみとは希望と現実との開き」 なにも病気の人だけが苦しいのではない  
だれも大なり小なり苦しみを抱えて生きているのではないか
「苦しみは必ず生きていく中で現れる」 どんなに努力をしてどんなに勉強しても試験に落ちること
があれば 一回戦で去年の優勝校と出会い負けてしまう 
何故自分だけこんなつらい目に会うのだろう  
そういう苦しみにであうのが私達の人生かも知れない 
でもその苦しみは単に苦しむのではなくて 苦しむ前には気が付かなかった事に気が付く 
苦しみは負の要素だけではない 苦しみから様々なものを学ぶことがある

その学ぶ事とは何か と云うとそれは「支え」である 
「支え」・・・将来の夢がある 今がどれほど辛くても頑張る  「支えとなる関係がある」 
人は一人では弱い存在かも知れない しかしその人を認めてくれる誰か
との支えとなる関係が与えられると一転して人はとっても強い存在になる 
地域としては「絆」となる  終末期のケアをする中で特に大事な人を失った苦しみ 
にどう向き合うと良いかということも一緒に学んできました
其の中で オーデンという研究者がいます 亡くなったご遺族の調査を元に悲しみを乗り越えるため
 4つの課題を出してあります

①亡くなった事実を認める(震災での行方不明 頭だけでは理解できない 認めたくない)  
②一杯涙を流す(辛い思いをしっかりと表出 出来る)
③大事な人の居ない環境に慣れる(新しい環境に慣れる 家事、炊事等)  
④悲しみを乗り越える(大事な人 を苦しみなく思い出すそんな時期が来ることがあります)
大事な人を失う悲しみは決してなくなりません 悲しみは決して無くなるものではありません 
悲しみを忘れるのではなくそれを越えなお繋がる絆 支えとなる関係 
がしっかりと描かれ築かれるならば なおその人は今を生きる確かな力になる  そう考えます
緩和ケアの基本として拘るのは 緩和ケアは単に痛みを取る 
たんに最後を迎えることが緩和ケアではありません 

様々な困難や苦しみを抱えながら今を生きようとする人の支えを応援すること 
そこに緩和ケアの最も大事なエッセンスが含まれる 
本当の慰めって有るんでしょうか?→ありません ただ言える事は 人は一人一人 
支えられ方が違います  
人に依ってその慰められ方もことなるかもしれない
それを難しく云う事は好きではありません  一人一人異なっても共通する係わり方
 共通する向き合い方はあるのではないか 
それが見えない限り本当の意味で地域で終末期を抱えた人と向き合う事が出来ない
 一部のエキスパート 一部の専門職でしかできないのではなく
私達がどう係わったらいいかそれを判りやすい言葉で表したいのです  
その人の支えを強めるのである 

緩和ケアで社会を変えたい→新しい文化を作りたいと言う大げさな思いがあります 
 今までは苦しみ等を良い事 励ましをしたり 何か楽しい話をして苦しみを和らげようとする
そんな考えがあったのかも知れません  新しい文化とは苦しみに誠実に向き合う文化です  
例え悪い内容であっても それと誠実に向き合う事 会社で悪い出来事があった時に 
ある意味で会社は隠そうとする でもそれでは消費者が困る事があり
大きな大企業はその悪いことを隠したことが原因でその企業がその地位を失う事が過去にある
事例です 日本の文化の中に誠実に向き合う事がなかったように思う
病院で最後を迎える事が困難な時代が来る 
今から30年後には120万人も130万人も年間に亡くなる時代が来る 

その時には 矢張り自宅 もしくは介護の施設で
最後を迎えることが求められる時にそこでしっかりと向き合う人材はないとこれはいい社会に
はなれません 
私にとっての良い社会とはどんな病気でもどこに住んでも安心して最後を迎える社会でありたいのです
寄り添う医療がこれから必要になって来る  ここで求められるのは直す事だけではない
例え治すことができなくても逃げないで寄り添い最後までかかわってくれる仲間が欲しいのです 
逃げないということですね
なぜかと言うと日に日に弱まる人と向き合う事は困難です 
どんなに心をこめて力になりたいと思っても日に日にやがて食事が少なくなる

段々眠る時間が増え 段々話が出来なくなる  そういう人と向き合う事は中々難しい事でしょう  
力になれるだから向き合える これは誰でも出来ます
しかし現場で欲しいのは例え力になれなくても逃げないで最後まで寄り添い続ける人が欲しいのです  
と云うのは亡くなる前 孫の結婚式にでて良かった
こういう作品を最後に作り皆に感謝の気持ちを持って最後を迎えた 
確かにそういう患者さんにも出あってきました
しかし現場にいておもう事はそんなにいい話だけではありません 痛いのは嫌だ 
でも痛み止めだけは使っては欲しくない とか
具合が悪くなるのは先生がいけない ・・・力になりたいと思う 
ある患者さんのまえには何にもできませんでした 力になりたいと思うほどなにも出来ませんでした
その部屋に入ることは辛くて苦しくて そんな時がありました そこで学んだのがこの言葉です
「誰かの支えになろうとしているのです 

誰かの支えになろうとするその私こそ 一番支えを必要としている」 ・・・私の授業を受けた高校生
の感想文に有った
無力 弱さ が持つ確かな力 本当の力とは全ての問題を解決できるオールマイティーな力ではないんです 
例え力になれなくても逃げないで寄り添い向き合い
続けることのできる力こそ本当の力です  それはどこから来るか 弱さから来る 
弱さゆえに支えが与えられ その支え故に なお逃げないで向き合える確かな力です
少なくとも命の授業を通して何人かは医学部に入り何人かは医師になっている  
本当の意味で人を育てるのには時間がかかる 100年以上掛るでしょう 
社会的な運動として社会を良くするためには大きく2つの眼差しを考えています
一番簡単なのはトップダウン 法律を作り世界を変える (私は好きではない) 
本当に社会を変えるのはボトムアップ つまり草の根運動 その人材を育てる
若い人の中で将来苦しみの為に働きたい そういう仲間が一人でも二人でも増えてゆく 
その仲間がさらに仲間を育てる