チェロの練習は一日2~3時間は弾く
練習ではあらゆるあらゆる曲をひく 5~6人の生徒が現在いる
チェロとの出会いは15歳の時 生でチェロを聞いたことから始まる
吃驚した シャンペンの泡の立つような音であると感じた 生き生きとした音
レコードでも聞くようになる
チェロを弾くのは昭和の初期 で珍しがられた
戦前の思い出→戦争で世間が緊迫してくるなどあってちょっとあわただしかった
却って戦中の方が兎に角空襲されたり ろくなことはなかったが諦めに似たようなものが有って 成るようにならないと思っていた
昭和17年 満州国建国10周年祭に参加 (稼がないかと誘われる)
人が足りず大分東京から沢山参加した
満州に行って稼ぎませんかと誘われた事がきっかけとなる
色んな国から検定曲が有りそれを弾く
山田耕作 斉藤秀雄 が指揮を執る
仕事もうまくいかず 昭和20年NHKのオーデションを受ける(精密機械軸受の事業もしていたがうまく行かなくなり)
給料から一気に決まる (NHK専属) 結構な条件だった
終戦間際に広島に原爆が落とされたが いち早く「原爆」だと言っていた(NHK内で)
噂になった 情報が早かった この戦争はもう長く続かないと思った
進駐軍が入ってきた
戦う為に土嚢が積まれていたがもう必要ないと進駐軍が全て(NHKないの土嚢)をかたずけた 後始末は進駐軍が行っていた
進駐軍兵隊と、ものを交換した 和気あいあいたるものだった
煙草、色んな物資の交換をした
進駐軍に聞かせる為に最初立川の飛行場の格納庫で3000人ぐらいの人が集まり行った
バイオリン、チェロ、ピアノ でやる サインを求められたり歓待してくれた
クラッシック、ジャッズ 何か所でもやる 接収されたホテルでも行う 結構忙しくなってきた
高度演奏 NHKではソロ伝票(演奏しなさいと云う注文伝票) 月1回 行う
当時は生放送でおっかない (入梅時キーがずれる) 全国に放送される
戦争中で慰問放送 5分か6分の曲を弾いたが 放送しないと云われる
硫黄島が陥落したんだという 急に海浮かばに変わってしまった
満州、台湾には放送された その後ソロチェリストして活躍
このえさんの招待でシュタオハーゲンというバイオリニストが来てその人とカルテットを組むことになる
一生懸命にやりました
85歳でバッハの無伴奏チェロソナタ6番を録音された
いきさつは→反響のいいホールで演奏したいと思っていたら、西脇さんが担当して録音してくれた
バッハの無伴奏チェロソナタ6番→ を練習している時でも引き込まれてしまう
なにもわからなくなる 無我の境地に成ってしまう
全部調べてやらないとけない 組みたてが難しい
CD発売 反響がすごかった CDには興味は持っていなかった
もっと早くやればよかったと思っている
91歳でバッハの無伴奏チェロソナタ5番 2009年にバッハの無伴奏チェロソナタ4番 今年CDが出る 3,2,1番が残っているが→もうやらない これからはゆっくりと休みたい
チェロをやって来て感じたことは→音楽の難しさ、演奏の難しさ
これは嫌っと云うほど自分の楽器から注文を受けました
楽器自体が私に注文を付けてくる
楽器の方は自分を生かしてくれ 活性のある音を出してくれと要求してきます
それに対して報いるのが精いっぱいです
ここまで歳を取ってきましたが、実は一瞬の出来事だった
自分の人生と云うものは一瞬の出来事であったように感じます
瞬間で、はかないものだと思いますね
兎に角自分は誠実に生きてきたと自分では思っています
驚く速さで自分の人生は一瞬にして終わってしまうように感じます
まだ勉強したいと思っている