2023年11月14日火曜日

齋藤悌子(ジャズシンガー)        ・ジャズと共に

齋藤悌子(ジャズシンガー)        ・ジャズと共に 

齋藤悌子さんは1935年(昭和10年)沖縄県宮古市生まれ、88歳。 那覇高校3年生の時に音楽の先生に薦められアメリカ軍基地のジャズシンガーのオーディションを受けて合格、卒業後ジャズバンドのボーカリストとして10年間に渡って歌っていました。 その後バンドリーダーだった斎藤勝さんと結婚し、千葉県へ。 1989年沖縄県石垣市に家族で移住しましたが、数年後夫が急逝、そのショックで10年悌子さんはジャズを歌う事が出来なくなり、音楽とは離れた生活を送っていましたが、1年のブランクを経て再び歌い始めました。 2022年には人生初めてとなるオリジナルアルバムをリリースし、現在も精力的に活動しています。 

今年8月には、NHK福岡放送局が制作したドキュメンタリー「The Life~人生はジャズと共に 齋藤悌子87歳~」が放送されて九州でも大きな反響がありましたが、9月には2回も全国放送がありました。 オリジナルアルバムをリリースしました。 

10月10日が誕生日で88歳になりました。 沖縄県宮古市生まれ、疎開して終戦まで台湾にいて、宮古島に戻ってきました。 中学までは宮古島にいて、高校は那覇高校に行きました。  クラシックは好きでしたが、卒業後ジャズに惹かれて行きました。 アメリカのベースキャンプにはフィリピンとか日本本土からバンドが何年契約で来ていました。   或る5人のバンドには歌手が居なくて、受けてみたらスカウトしてくれました。     それから勉強しました。  そこのバンドリーダーが後の夫でした。 レコードを買って沢山練習をしました。 キャンプの軍人さんから10日に一遍ぐらいで英語の発音のレッスンをしてくれました。  

1ステージ45分ぐらいで、その中に歌が3、4曲ぐらいリクエストがあり歌って、3ステージぐらいありました。  基地の中にクラブステージがありました。  サラ・ヴォーンなどトップレベルのシンガーやミュージシャンが慰問に訪れるなど、一流の音楽に触れる機会もありました。  ビッグバンドも来て、楽器ごとに音合わせの時間をかけるのには吃驚しました。  当時「ダニーボーイ」は毎日のようにリクエストがありました。  レパートリーは数えきれません、リクエストは歌うようにしていましたので。 

「ダニーボーイ」を歌っていた時に、若い軍人と若い女性が踊っていて、若い軍人が涙を浮かべていました。  歌い終わってクラブの人に聞いてみたら、すぐにベトナムに行くという事でした。 聞いて辛くて、歌う時には必ずその話をして、「兎に角戦争はいけません」と大きな声で言います。 (ベトナム戦争は1961年から始まり激化していた。) 今年の慰霊の日にも石垣島で歌いました。  

結婚したのは25歳の時でした。  29歳で千葉県に引っ越しました。 子どもが二人出来て大きくなって、その間夫は音楽活動をしていました。 声がかかって又歌い始めました。  1989年沖縄県石垣市に家族で移住しました。 娘が喫茶店を始め1週間に一度ぐらい演奏して聞かせることを夫としていました。 5年後に夫が急逝してしまい、しばらくは音楽を聴くのが辛くて、音楽から遠のいていました。(10年ぐらい) 今は音楽が切り離せられない状況なので、声が衰えるのが怖いので、ボイストレーニングは毎日やっています。 

或る時喫茶店に入ったらジャズが流れていました。 聞いた途端に歌いたくなってしまい、それから始めました。   昨年は東京でコンサートもやりました。  米軍キャンプで歌うのとは雰囲気が全く違います。 クラシックをやっていて、なんでジャズに惹かれたのは私にもわかりません。 

6つ上の兄が牧師をしていて、沖縄の高等弁務官の就任式の時に、兄がお祈りを頼まれて、「今回の高等弁務官が最後の弁務官になりますように。」と言う御祈りをしたらしいです。  その時の反響が凄ったらしいです。(賛成派と反対派) いま兄は92歳です。  兄とたまたま那覇に行く機会があり、基地の前で早く撤退してほしという事で、皆で讃美歌を歌いました。  去年たまたまプラザハウスというところでライブをしましたが、そこは50年前にレコード、ドレス、靴を買ったりした場所でした。 50年前に買ったドレスを着てステージに出たら、兄が客席の一番前に座っていました。 歌い終わったら、兄が感極まってハグしてきて吃驚しました。  12月20日は宮古で私の76年振り里帰り公演を行います。 97歳になると、カジマヤー風車祭)という童心にかえるお祭りがあります。 それまで歌うと言ったら皆さん笑っていました。

人は歳を重ねるだけでは老いない。 理想を失った時に初めて老いが始まる。