北原照久(ブリキのおもちゃ博物館館長) ・好奇心は人生を楽しくする
1948年東京都出身、ブリキのおもちゃのコレクターとして有名で、民放テレビ番組のおもちゃ鑑定士として活躍されている姿が目に浮かぶという方もいると思います。 1986年の4月多くの人にコレクションを見て楽しんでもらいたいという思いで、神奈川県横浜市にブリキのおもちゃ博物館を開館しました。 ものを長く大切にすることにこだわり、好きなものに囲まれて暮らす北原さん、75歳になりましたが、まだまだ少年のような心を持ってチャレンジしています。
小学校、中学校は反抗期でした。 4人兄弟(姉1人、兄2人)の末っ子でした。 上の3人が勉強ができていつも比較されてそれが嫌でした。 学校には行かない、いろんな悪さをしていました。 3年の2学期で義務教育なのに退学になってしまいました。 母から「お前の人生は、今までの人生よりこれからの人生の方がずーっと長い。」と言ってくれました。 「人生はやり直しが出来ない。でも出直しはいつでもできる。」、「お前はタバコを吸わないからいいところがある。」、「おまえは花を踏まない本当は優しい子だ。」と4つのことを言ってくれました。
家がスキーの専門店なので高校に行かないで、手伝う気持ちでいましたが、父が「高校は行けよ。」というので、本郷高等学校に入りました。 1学年800人ぐらいいました。 担任の先生に対して、良い感じだと思いました。 中間テストで60点取って先生が黒板に張り出して、「北原、やればできる。」と褒めてくれました。 それから教科書を丸暗記しました。(次の期末試験までに) 先生に褒めてもらいたかった。 実力で平均で70点ぐらい取りました。 「お前は凄いな。天才か。」と褒めてもらって、また頑張りました。 その繰り返しの中で、卒業するときに総代になりました。 人生って、どんな人と出会うか、どんな言葉と出会うか、それは凄く大きなことだと思います。
大学では学園紛争が一番激しい時でした。 授業はほとんどありませんでした。 オーストリアのインスブルックにスキー留学しました。 ホームステーした家が長く使う事が自慢であり誇りなんです。 銅の鍋が応接間に飾ってありました。 その鍋で実際料理するんですが、「これはひいおばあちゃんの代からずーと使っている鍋よ。」と必ず言うんです。 料理も美味くみんなハッピーで、それが古いものへの思いのきっかけになりました。 粗大ごみの日があり、古い柱時計が捨ててありました。 それに油を注いだら動きだしました。 命を吹き込んだような気持になりました。 コレクションの第一号は拾った柱時計です。 そこからいろいろなものを集め出しました。 スキーショップのビルの地下が空いていたのコレクションをそこに入れはじめました。
インテリア雑誌を観ていたら、矢野さんというデザイナーの方が、古いブリキのおもちゃをずらーっと並べているんです。 出版社に電話して矢野さんに会わせて欲しいと連絡して会う事ができました。 デッドストックへ一緒に行きましょうと誘われました。 好奇心と行動力ですね。 そのうち雑誌、テレビで取り上げられるようになりました。 デパートでおもちゃ展をやらないかと言われてやったら、1週間で入場料を払って3万人のお客さんが来ました。 常設したいと思って、ブリキおもちゃ博物館を作りました。(1986年37歳) 1500万円を保険会社から借りて、スキーに関わるいろいろな仕事を一生懸命働いて、そのお金をつぎ込みました。 好きなスキー、海、映画に行かずに、1年間やるつもりが10年間行かずに過ごしました。
博物館をオープンして13年が経ち、50歳になり体力の衰えを感じました。 ウクレレ、エレキギターを始めて、腹筋ローラー、サーフィン、ゴルフ、手品、ピアノも始めました。 加山雄三さんに憧れていました。 52歳の時にお会い出来、ステージで一緒にエレキギターを弾いたりすることも出来ました。 想い続けて口から出して言っていると、情報を呉れる人、力を貸してくれる人が現れてきて、夢が叶うことになってゆく。
僕は宇宙に行きたいです。(地球を客観的に観たい。) 綺麗な星なのに争ってはいけません、と一回自分で観てそれを伝えたいなと思います。 集めて来たコレクションを次の世代に残していきたい。