増田明美(スポーツジャーナリスト) ・〔師匠を語る〕 取材の仕方の原点に永六輔あり
増田明美さんが師と仰いでいたのが、放送作家、作詞家、タレント、ラジオパーソナリティーと幅広いジャンルで大きな足跡を残した永六輔さんです。
永六輔さん(本名:永孝雄)は1933年(昭和8年)6人兄弟の次男として東京浅草に生まれます。 生家は浄土真宗のお寺でした。 昭和27年早稲田大学に入学した永六輔さんんは音楽家でプロデューサーの三木鶏朗さんの門下生として、NHKの日曜娯楽番組の台本を書くうちに、それが本職となり大学を中退、本格的の放送の仕事に取り組むようになりました。 ラジオに続いてテレビ番組の構成も手掛けて、出演者としても活躍しました。 作詞家としても永六輔さんの功績も見事です。 作曲家中村八大さんとのコンビで送り出した「黒い花びら」「上を向いて歩こう」「こんにちわ赤ちゃん」など数々の名曲が大ヒット、又作家としても「芸人その世界」「無名人名語録」「大往生」などがベストセラーになりました。
永六輔さんと言えば、やはりラジオです。 1967年(昭和42年)TBSラジオでスタートした「どこか遠くへ」から「土曜ワイドラジオ東京永六輔その新世界」を経て「六輔七転八倒90分」まで、長年ラジオのレギュラー番組を続けてきました。 2016年6月をもって「六輔七転八倒90分」は終了しました。 翌7月自宅で息を引きとります。 83年の生涯でした。 8月に青山斎場で行われた「「六輔永のお別れ会」は永六輔さんの次女の永麻里さんの「今日は泣かないでください。 皆で笑って帰りましょう。それだけお願いいたします。」で始まったと言います。
選手を引退して、ラジオのパーソナリティーの仕事を頂いたことがきっかけで、勉強のためにいろいろな方のラジオを聞いていました。 永六輔さんの語り口が暖かくて、聞いていて楽しくて、ラジオなのになんで匂いが伝わるのだろうと思いました。 土曜ワイドラジオ東京「永六輔その新世界」にゲストとして出演することになりました。 一緒に歩いたり、講演を伺ったり、とかで交流が始まりました。 取材が大事、取材は材料を取るという風に書きます。
現場に行って取材することの大切さを教えていただきました。 その人を知る時には実際に会って五感で感じ取ったものが大事なんだと言われました。 「会いたい人が居たらどんなに遠くでも会いに行って、その人に会って肌で感じたことを持って帰って来て、マイクの前でお話をしているだけですよ。」と言っていました。 その姿勢を教わりました。 永さんとお会いしなければ,いただく資料だけでお話していたかもしれません。 毎日新聞の自分のコラムに、「増田明美さんの解説も金メダル。」と書いてくださって、本当にうれしかったです。 人に対する興味も旺盛な方でした。
増田明美さんは日本最高記録を12回塗り替えて、世界記録も2回塗り替えました。 しかし、ロサンゼルスオリンピックでは挫折をしました。
「柳句会」という句会にも一緒に4回ぐらい連れて行っていただきました。 毎月17日にやっていました。 柳家小さん師匠、小沢昭一さん、加藤武さんなどがいらっしゃいました。 「夏の蝿鈍き動作も俺に似て」 小沢さん作 「言葉のぜい肉を取るためには、俳句がいいですよ」と言われました。 間の大切さなど、空気に触れられたことは私の財産になりました。
毎日新聞で「さあ走りましょう」という誌上ジョギング講座をやった時期がありました。 紙面でアドバイスする。 ゲストを呼んでくれないかという事があり、永さんにお願いしまた。 永さんからいろいろテーマを頂きました。 私が41歳で結婚した時には、司会をして頂きました。(あまりそういったことはやらないタイプの人でしたが)
最後になったレギュラー番組にも私も参加しましたが、スタジオの中にベッドがありました。 ぎりぎりまでベッドに寝ていて、始まる少し前に起きてきて、ラジオに向かっていました。 最後のころはちょっと聞きずらかったりしましたが、永六輔さんの土曜ワイド「永六輔その新世界」は皆さんが介護をするように聞いていました。 (永さんのことをみんな判っていたので) 枯れてゆく自分を観てもらいたいというようなことを言われていました。
私も覚悟はしていましたが、家族の方から連絡があり旅立たれたんだと知りました。 7月7日でした。 奥様が先に旅立たれましたが、旅先からも手紙を書き送っていました。 天の川で奥様と再会して、あちらの世界に行かれたなと思いました。 こんなに長くお付き合い(20年ほど)できるなんて思ってもいませんでした。 ロサンゼルスオリンピックでは挫折を味わい、競技者としては自信がありませんでした。 「増田明美さんの解説も金メダル。」と書いてくださって、頑張れるかもしれないという気持ちになりました。 永さんはお日様みたいな人でした。 葉書のやりとりは何度もありました。 一言でした。 「良かったね。」「ありがとう。」とか。 あった方には全員に書いていました。 そういう方でした。
永六輔さんへの手紙
「天国の永六輔様・・・両国から泉岳寺まで一緒に歩きましたね。・・・いろいろなことを知らない私に永さんはいつも楽しそうに、沢山のことを教えてくださいました。 解説の仕事が始まると、「取材って材料を取るって書くでしょう。」と言って、現場に行って感じることが大切だと教えてくださいました。 ・・・手紙の一言がとっても嬉しかったです。・・・私は永さんのようになりたいと後ろを歩き続けていますが、自分がしゃべり過ぎてしまい、なかなか聞き上手にはなれません。 ・・・永さんとの出会いは私の一番の宝物です。本当にありがとうございました。」