2023年11月23日木曜日

鶴岡剣太郎(スノーボード解説者)    ・逆境を力に変えて

鶴岡剣太郎トリノオリンピック・スノーボード代表、スノーボード解説者)    ・逆境を力に変えて 

スノーボードがオリンピックの種目になったのは、1998年の長野オリンピックから。   その少し前、21歳のころスノーボードに取りつかれた鶴岡さんは、大学卒業後も就職せずにアルバイトをしながら、競技生活を続けて世界を転戦し、トップスノーボーダーを目指しました。  ヨーロッパやアメリカの選手と力の差が大きい中、2006年トリノオリンピックの出場権を獲得、オリンピックでスノーボードのアルペン種目を滑ったアジアで最初の男子選手になりました。 スノーボードアルペン種目のパイオニア鶴岡さんに、そのオリンピックや道のり、スノーボードの魅力などを聞きました。

母親が福島県の出身だという事もあり、父も学生時代スキーに取りつかれて、私が生まれてからもゲレンデなどに連れていてもらったり、母の実家でそりで滑ったりしました。   雪って楽しいんだなと思いました。  1974年生まれで、スキーで世界を転戦するような選手になりたい、と言う様な思いがありましたが、叶わなかった。 挫折感のなかスノーボーダーをスキー場で見て、これだと思いました。  

スノーボードがオリンピックの種目になったのは、1998年の長野オリンピック大会。  ハーフパイプと大回転の2種目だった。 現在は5種目になりました。 スピード種目と演技で点数を競うフリースタイルに大きく分かれます。 私はスピード系をやってきました。時速60~70kmぐらいで滑っています。  中学では体力が将来スキーへ繋がるだろうと思って部活は陸上(走り幅跳びと110mハードル)をやりました。  イタリアのアルベルト・トンバ選手に憧れていました。  全国中学スキー大会では千葉では予選が無くて、3名全国大会に行きました。  とんでもない世界に挑戦したなと思いました。    

高校は山形県の羽黒高校、大学は仙台大学に行きました。 高校では男子だらけの寮生活でした。 スキーでは強豪校ではありませんでしたがのびのびと練習が出来ました。  大学で3年の時にインカレに出ましたが、300人中後ろから数えた方が早いというような成績でした。 スキーへの想いが薄れて行って、リフトに乗っていたら、楽しそうにやっているスノーボーダーを見て、これだと思いました。  スキーとは違ってものの1秒で倒れてしまいました。 とんでもないスポーツを始めてしまったなと言うのが最初でした。 最初はリフトから降りるのに30分ぐらいかかりましたが、段々3分、30秒になりました。 

段々うまくなってきたら、大会に出てみようと思うようになりました。 出場したら2位でした。 参加費が3000円でしたが、景品が凄くよかったです。 優勝者が海外旅行の航空券でした。  そこからうまくなろうと思ってはまって行きました。  就職はしましたが2週間で辞めて、スノーボードを競技選手として捉えようと思って、決断しました。  世界に挑戦すると言うことになると、周りからの協力、支えも必要だし、資金面も大変でした。 

1998年の長野オリンピックからスノーボードがオリンピックの種目になりました。  1999年に日本代表に召集される事になりました。  ソルトレイクオリンピックを目指したいと思いました。 全日本チャンピオンになってから道具に対する提供があったり、ワールドカップに挑戦しするときにも、遠征費を肩代わりしてくれたメーカーさんもいました。 非常に恵まれていたと思います。 ソルトレイクオリンピックへはポイントが足りずに行けませんでした。(27歳)  このまま競技生活をやっていていいのか、非常に悩みました。  次のトリノオリンピックに挑戦しようと思いました。 フランス人のコーチが日本代表のコーチになってくれました。  海外の高い技術をしっかりと私たちに教えてくれました。  トリノオリンピックに出場することが決まりました。  

スタートでは頭が真っ白になってしまっていました。 1回目はゴール前で転倒しました。 予選で敗退しました。(28位) それから18年が経ちました。  北京オリンピック、今年の世界選手権の解説もしました。 三木つばき選手が昨年の世界選手権で優勝したことによて、いろんなかたがたに勇気を与えたと思います。  自分の意志、行動で環境をどんどん変えてゆく、自分の努力で生き方も変える事によって、不可能と思えることも可能ににできる。  自分は出来るんだという事を信じて挑戦してほしいという事は、沢山の子どもたちに伝えて行きたいです。