2023年5月7日日曜日

津嘉山正種(俳優)           ・〔時代を創った声〕

 津嘉山正種(俳優)           ・〔時代を創った声〕

多くの舞台やテレビドラマ、映画などに出演、ラジオのパーソナリティ、ナレーションなどを担当してきました。   ケビン・コスナーロバート・デ・ニーロなどといった俳優の吹き替えで知られています。   沖縄県那覇市出身。  上京して劇団青年座に入団、60年目に入りました。    1歳の時に戦争が終わって、収容所で生活していて芝居、映画など何もないところで育ちました。   逃げ回っていたが、捕まって沖縄の中部の石川市に集められて、焼け残った民家に分散して泊めさせられました。  1年生ちょっと迄その収容所で過ごしました。  不味い脱脂粉乳を飲まされた記憶があります。      収容所の大人はトラックに載せられて軍事産業に行きました。  帰りには米軍の残飯などを積んできて、広場で所帯ごとに分けて食べていました。  

中学では吹奏楽部に入って、沖縄県立那覇商業高等学校に行きました。   演劇に力を入れていて、全国高校大会で入賞していました。  文化祭で演劇をみて、演劇部に入りました。   高校卒業後、琉球放送に就職、テレビのアシスタントディレクターをやり始めました。   そのうちドラマを作りたいと思って、アマチュア劇団でドラマを作っていました。  琉球放送を2年で辞めて、上京しました。  3月なのでもう締め切ってしまっていて劇団などの養成所を受けるところがありませんでした。  劇団青年座を紹介してもらい、70数名受験者がいて一緒に受験しました。   いろいろなテストがあり、最後にアピールすることをやってと言われて、沖縄の収容所の話から始めました。  審査員が聞き入るように聞いてくれました。  審査発表があり男6人女6人が研究生として受かりました。    でも60年経って他には一人もいません。   

なかなか役には付けませんでした。   舞台に立てたのは26、27歳になっていました。   少しずつ役は増えていきました。  1973年にアメリカで放送された海外むけドラマ「刑事コジャック」のコジャックの部下のクロッカー役で、1975年から日本で放送されました。(沖縄返還3年後)  コジャックが森山周一郎さんでした。     声優としては一流の俳優さんの舞台を見ることができるわけです。  相乗効果を一杯与えられました。  森山さんはアテレコだけなのに、制作発表するときに頭をつるつるに剃って出てきました。   森山さんからは色々なことを学びました。  

ケビン・コスナーやロバート・デ・ニーロなどいろいろやらしてもらうようになりました。「タクシードライバー」と言う映画  ロバート・デ・ニーロの最初の頃の映画でしたが、凄い俳優だと思いました。 その後現役を辞めたボクサー役で出てきましたが、20kg太るために牛乳を何本も飲んで太ってあの体を作って、又20kg減量して現役のボクサーにするんです。   原版が持っている良さを損なってはいけないと思っています。  原版に如何に合わせてゆくかが一番問題です。  原版はスタジオでしか見れず、多くて2回でした。   字幕は翻訳した1/3ぐらいしか出ない。  アテレコの場合は全部翻訳して全部しゃべるわけです。  空気感も出てくる。

1988年44歳の時に、クモ膜下出血で倒れる。  疲れが溜まっていたんだと思います。 蜷川さんの「マクベス」をやった直後でした。  急遽平幹二郎さんの代わりに「マクベス」をやることになり、セリフとか立ち回りを全部覚えなくてはいけなくて、舞台が終わって家に帰って来て、夜中の2時、3時まで家で稽古をしたりしていました。  ロンドンに行って成功して日本に帰って来て、次の芝居をやったらクモ膜下出血で倒れてしまいました。多く汗をかいて、吐き気をするような感じになり、その後生卵を後頭部でつぶすような感覚でした。  その後吐いて床に崩れ落ちました。  急遽病院に行って開頭手術をして60日間の入院生活でした。(5月、6月)  その後12月に帝劇の芝居が決まっていました。       やらなければいけないと思って、リハビリを開始しました。   筋肉が全然衰えてしまっていました。

2005年にも軽い脳梗塞、2009年にも3度目の脳卒中の発作がある。   しゃべり方がおかしかったので、救急で病院に行きました。  舞台は体には物凄く悪い仕事ですが、でも受けた以上はやり通さないといけないと思います。   それが支えにもなります。   働けるという事はどんなに素晴らしい事なのかと思います。  人生一回こっきりなので、今できる、今努力できる限りのことを一生懸命努力する、やれるだけやれればいいと思います。