2023年5月30日火曜日

門井慶喜(作家)              ・〔わが心の人〕 菊池寛

門井慶喜(作家)              ・〔わが心の人〕  菊池寛 

菊池寛は流行作家として活躍したばかりでなく、文藝春秋社を作り、芥川賞、直木賞を創設するなど、多くの作家を世に送りだしました。  1948年3月6日亡くなりました。(59歳)

「文豪、社長になる」を出版。   菊池寛を検証する1冊となる。  本をもう一回集め直して読み始めました。  菊池寛に関する年表も自分で一から作り直しました。

菊池寛は香川県香川郡高松で生まれて、家柄はいいです。 先祖には有名な儒学者、学者もいる武士の家です。  明治になって貧乏になってしまって、菊池寛は長男ではないという事で学校に行くのにも教科書を買ってもらえない状態だった。  菊池寛が中学生のころ、通学路に図書館が出来ました。   そこに通い詰めとなる。  1910年第一高等学校第一部乙類(東大の予備課程)に22歳で入学。  そのまえに東京高等師範学校へ進んだり、明治大学、早稲田大学などにも短期間籍を置く。  第一高等学校では同期に芥川龍之介久米正雄がいた。   英語の勉強を目指したが、芥川龍之介の英語力、都会人、見た目もかっこいいという人と出会って、将来を決める元にもなったし、コンプレックスにもなったと思う。       

高校はマント事件」が原因となり退学となり、大学進学は認めてもらえた。  東京大学の先生に嫌われて、京都大学に行く。  京都大学を卒業して時事新報の新聞記者になり社会部に配属される。  その後の菊池寛に凄く影響を与えた。   芥川龍之介が夏目漱石の激賞を受けて先にデビューしてゆく。   大きなコンプレックスを持ったと思います。真珠夫人(1920年)発表。  当時の上流階級の話で、社会部記者としては知り尽くしていた。  この本が話題となり、芥川龍之介の知名度、経済的にも追い抜きました。  真珠夫人で文体が変わって判りやすくなった。   

1923年(大正12年)雑誌『文藝春秋』を創刊する。  売れて2号、3号と出してゆく。  同人雑誌という意味合いだったが、文藝春秋社を作り、社長になる。  ある時期から総合雑誌になってゆく。  1927年(昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺してしまう。    売れ行きという点では菊池寛には全然かなわなかった。  芥川龍之介は気に病むタイプでどんどん追い込まれてしまう。  亡くなる数日前に菊池寛に会いに行くが、いなくて社員が来たことを伝えときますと言ったが、菊池寛に伝えなかった。  数日後に亡くなり、「なんでいってくれなかったのか」と言ったらしい。  自分を責める気持ちが凄く強かったと思います。 

直木三十五は病気で亡くなる。  直木は31歳の時にエッセーイストとしてデビューする。  その時のペンネームが直木三十一、一年ごとにペンネームを増やしてゆくという。  その後36歳になってもそのままのペンネームとなり、定着する。  文壇ゴシップを書いたのが直木三十五でした。(31歳のころ)  借金を抱えていて大阪に逃げて小説を書き始める。  新聞小説で人気が出て一躍流行作家になる。  菊池寛がどんどん書かせているうちに過労で倒れてしまった。 結核性脳膜炎で亡くなる。  この死も菊池寛にとってはショックだった。(芥川龍之介が亡くなって7年後) その翌年、芥川賞、直木賞を思いついた。

芥川賞は純文学に、直木賞は娯楽系になる。  無名、もしくは新進の作家に賞を送ろうという事になる。  二人への思いもあるが、2月、8月は雑誌が売れないからここに賞を作ったら売れるのではないかという事を平気で言うんです。  二人は若くして亡くなっているので、大家ではなく、これから 長くいきてくれるであろう人、つまり 無名、もしくは新進の作家に賞を送ろうという事になる。  僕も2018年に『銀河鉄道の父』で第158回直木三十五賞を受賞しました。

菊池寛が会社経営者としての面はどうかと、調べて書きました。  会社経営者といしては疑問なところがあります。  人望はある。 雑誌の企画力はある。 しかしそれ以外には何もなかった。  お金に対する警戒心がなかった。  広告料を不正に着服してしまう人も出てきた。  原稿を払えない状態に追い詰められて、ようやく健全な経営に戻していった。  つい人を信用してしまう人だった。  

「ペン部隊」(第2次世界大戦時、対中国戦線に派遣された作家などからなる日本の部隊を作る。  読者の戦争に対する関心を喚起する目的で、政府、軍主導で行われる。    菊池寛を呼んでどうすべきか尋ねたら、菊池寛が乗り気になってしまう。  これが菊池寛の人生にとって大きなポイントになると思われる。  或る意味戦争協力の始まりである。  菊池寛は戦争を賛美する人ではなかった。   英語が得意だったので、アメリカやイギリスの国状をよく知っていたので、もし戦争に成ったら大変なことになるという感覚は持っていた。  作家たちを政府に渡したくない、という事だったと思う。  自分が断ってしまうと軍人や政府にコントロールされてしまい、それだったら自分がやるという風に思ってしまった面があると思います。  責任感が悪い方に出てしまった。

戦後、GHQから責任を問われて、公職追放という処分を受けることになる。   文藝春秋社も自ら離れる。  病気をしたが回復して、自宅に集め、全快祝いを行ったが、そのパーティーの晩に急に亡くなってしまう。   狭心症を起こしてなくなってしまう。