2023年5月2日火曜日

谷津賢二(ドキュメンタリー監督・カメラマン)・医師・中村哲がアフガニスタンに遺(のこ)したもの

谷津賢二(ドキュメンタリー監督・カメラマン)・医師・中村哲がアフガニスタンに遺(のこ)したもの 

谷津さんは1961年栃木県生まれ、民放の報道カメラマンを経て1994年から電波ニュース社へ、或る時パキスタンやアフガニスタンの無医村村で活躍する医師・中村哲さんの著書を読んで感動し、一時帰国した中村さんに取材を申し入れ、許可されました。  中村さんは福岡県出身で1984年からパキスタンやアフガニスタンで医療支援を続け、2000年からは農業用水路の建設にも力を入れました。  中村さんは2019年12月に凶弾に倒れましたが、その後も多くの人々がその遺志を継いで、用水路事業そして医療や農業に従事しています。   谷津さんはおよそ21年に渡り、中村さんの暮らしや仕事などおよそ1000時間の映像を撮影してきました。   映像はNHKのETV特集などで放送され、2018年、2019年とニューヨーク映画祭で銀賞、全日本テレビ制作社連盟優秀賞などを受賞しました。  さらに谷津さんは映画「荒野に希望の灯をともす」を制作し、多くの人々に感動を与えています。  谷津さんにカメラを通して感じたこと、中村輝さんが遺したものについてなど伺います。

私は山が好きで高校では山岳部、大学では登山のサークルに入っていました。  経験を買われて山岳地帯の取材なども経験しました。  会社の先輩から中村医師の著書「ダラエ・ヌールへの道」を手渡されました。   読んで強い衝撃を受けました。   アジアの辺境の辺境で日本人のドクターが医療から見放された人たちへの医療行為の凄さ、文章の凄さに驚いて、この人を取材、撮影したいと思いました。   中村医師が一時帰国中に東京で会える機会があり、取材の申し入れをして、許可を得ました。  1998年4月に初めての取材に行きました。  パキスタンとアフガニスタンの国境地帯へ行きました。 

パキスタンのペシャワールの街に拠点となる大きな病院が出来たばかりでした。     いろんな意味で病院にすら出てくることが出来ない人が居るだろうと、そういたところに目を向けていました。  医療機器、テントなどを積んで馬にまたがって6000~7000m級の山々へテントで寝泊まりして巡回診療されていたころでした。   同行を許されて山に中に入ったのが最初の仕事でした。   馬で2日かかって行ったところ(3600m)のボロボールパキスタンの北西部、カイバル・パクトゥンクワ州のダージリン地区にある町で、山岳地帯に位置しています。)という場所ですが、村はおろか、人っ子一人居ないんです。  待ちましょうと言って、中村さんは大の字になって眠ってしまいました。  その日は何にもなくみんなテントで寝て、翌朝、人の気配がしました。    

老若男女が近づいてくるのが見えました。 馬に乗っていた時の中村医師のぼんやりしたような顔とが違って、吃驚したのは目には強い力を宿していて、口はへの字に結ばれていて、医師中村哲という顔になっているんです。  身体からは強い気迫がみなぎってきていました。  100人ぐらい来ましたが重篤な患者が3人ぐらい居て、手術までしていました。   医者にかかって初めて自分の身体を意識するというような人も多いです。   一人一人丁寧に生活の実態とか、食べものとか、聞き取って適格なアドバイスをしていました。   身体が痛くてアヘンを吸っていた人が多かったです。   鎮痛効果がりアジアの辺境では広く使われていたようです。  アヘンは中毒症状を起こして、身体に悪いということを丁寧に説明して、応分の鎮痛剤を処方したりという事をやっていました。 

中村医師を支えていたのは、アフガニスタンが支えているんですが、福岡に本部があるペシャワール会というNGOが寄付を集めて、アフガニスタンに送金して活動が行われています。   現在もペシャワール会は活動を続けています。  中村医師から薫陶を受けたスタッフたちの活動を日本側から支えています。  

中村医師は2000年ごろから干ばつ対策として農業用水路の建設を始める。   命を救うという事は井戸を掘る、用水路を建設することも同じだという考え方があったと思います。 干ばつになり飲み水がなくなると老人、こどもなどの弱い人たちが真っ先に命を落として行く。    医者でありながら医療は役に立たないという決断をするんです。      医療行為も土木工事も同じ地平にあったと思います。   干ばつは大きな気候変動(地球温暖化)だと中村医師は言っていました。  中央アジア一帯が干ばつの影響を受け始めていました。  

4000m級の山から雪がなくなって行きました。  雪は降るが、雪の季節が終わると、気温の上昇が一気に高くなりました。  干ばつの前は徐々に雪は溶けだして、小川になり村々を潤していた。   2000年ぐらいになると雪が一気に溶けて洪水のように流れ落ちて終わってしまう。   中村医師が用水路を作ると宣言した時には、にわかには信じられませんでした。    昼間は汗まみれになり、夜は寝ずに勉強したりしていました。     土木、流体力学、建築の構造計算とか独学で学びました。  重機の運転まで独学で覚えてしまいました。   水路にどうやって水を引き込むかという困難に直面します。

試行錯誤するがなかなかうまくいかなかった。   山田堰というものがあることを同行の日本の若者がインタネットで知って、筑後川の取水施設だと判って、一時帰国した時に二人で観にいったんです。   その時に中村医師の顔がサッと変わったと言っていました。  山田堰を3日ずーっと見つめていたそうです。     それまでの経験、得た知識と合わせて、アフガニスタンに同じようなものを再現してしまうんです。   用水路は27km弱で、井戸は1600本です。   緑の農地にして暮らしている方が約60万人。 灌漑農地が1万6000ヘクタール。   ナンが主食なので小麦が多いのですが、米が好きという事で水さえあれば米を作りたいという事で、米、野菜類も作っています。  

中村医師は「水の力は凄いですね。」と言っていました。  砂漠みたいなところに用水路が出来て、定点撮影していると、最初に小魚が入っていて、それを狙って鳥が来て、鳥のフンの中に植物の種が入っていて、両岸に名もなき草が繁殖していきます。  そうしているうちにいろんな動植物がきて、緑が復活、農地が広がってゆく。  驚くべきことです。   

2019年に凶弾に倒れる。  40年近く戦禍に苛まされる国の人たちでした。  中村医師はある程度の危険の覚悟をもって働いていたとは思いますが。  「戦闘がない状態を平和だと思ってしまう事もあるかと思うんですが、本当の平和というのは戦闘が止んだだけではなくて、人々がお互い敬愛して助け合いながら、皆が暮らせる社会が出来て初めてそれが平和だと言えるのではないか」と、中村医師は言っていました。  「人と自然の和解が必要だ。」とも言っていました。   亡くなるちょっと前のインタビューで、「自然にも人格があると思っています。」と言っていました。   「人格があればこそ、人間が欲望のままに自然から資源やらいろんなものを奪い取ることはないでしょう。  人格があればと思えばこそ、自然が人間を養生するという気持ちも起こるし。」とも言いました。     「戦争は資源の奪い合い、領土の奪い合いで起こる。  人と人の和解だけでは戦争は亡くならないだろう。  人と自然が和解して、自然から人間が奪い過ぎない、お互いが共存してゆくという気持ちにならない限り、戦争はなくならないのではないか。」と言っていました。   

中村医師が亡くなられた後、21年間の取材で約1000時間の映像素材が残りました。  中村医師が何を考え、何を残したのか、何を人々に授けたのか、記録として残したいと思いました。   他者とどうかかわって生きるのか、という中村医師が残した生き方こそが、こんな時代を生き残るための考え方なんじゃないかと強く思って、それを多くの方に伝えたいと言いう思いがあって映画(「荒野に希望の灯をともす」)にしました。  高校2年生の女性徒から「今まで日本にはろくな大人はいないと思っていました。  こんな方が居たんだという事を知って、勇気つけられました。  自分が生きている日本は大丈夫かもしれないと思いました、」と言ってくれました。   他者とどうかかわって生きるのか、という中村医師が残した生き方を突き詰めると「利他に生きる。」という事ではないかと思います。