柳生博(俳優・日本野鳥の会名誉会長) ・確かな未来は懐かしい風景の中にあります
俳優・日本野鳥の会名誉会長で山梨県北部の八ヶ岳のふもとに生活の拠点を置いている。
昭和12年生まれ、茨城県の霞ケ浦のほとりで生まれ育ちました。
13歳の時、初めての一人旅で訪れたのが八ヶ岳でした。
24歳の時、今井正監督の「あれが港の灯だ」で映画デビュー。
数々のドラマや映画への出演だけでなくTV番組のナレーターや司会者としても活躍しています。
40歳を過ぎたころ柳生さんはかつて訪れた八ヶ岳のふもと北斗市大泉町に家族と生活拠点を移します。
自ら雑木林を再生し、カフェやギャラリーのあるパブリックスペースとしてオープンさせてから、今年でちょうど30年です。
82歳、今も自然に囲まれ野良仕事に精を出しています。
その暮らしの中から得た柳生さんの人生哲学をお聞きしました。
今年は紅葉が1週間遅れています。
北に八ヶ岳連峰があり1360m地点に僕の森があります。
今は高い木の枝打ちをやっています。
40年前から木を植えて1万本ぐらいになります。
まず最初の年はクマザサを6回ぐらい切って、切ってゆくうちに背丈が短くなり光が入ってきて、草花が生えるようになり虫が寄ってきて、実も付いてくるといろんな動物が来ます。
葉っぱが散ってゆくと冬は鳥が来ます。
鳥の好きな実の木を植えるとそのうち冬になると真っ赤な鳥オオマシコがロシアから来ます。
4月になるとカタクリの芽が出てきます。
孫が7人いますが、朝起こしに来て「ジイジ、カサコソしよう」と言います。
森の中を歩くとカサコソと音がして、孫たちは落ち葉の中からダンゴムシ、ミミズなどを探します。
野良仕事は野が良くなる仕事です。
日本は海、川、里、山でもこんなに沢山の種類の生き物が人間のそばにいて暮らしている国はないと思います。
40歳ぐらいの時は『いちばん星』というTV小説で野口雨情の役をやらせてもらいました。
年間700本ぐらいやっていて、つらいことがありました、
妻とも会えない、子どもとも会えないという様な時期で、ある時に小学校4年の長男が顔に血が流れていました。
父親がTVに出ていて、お前の親父は人を殺しただろうとか、不倫しただろうとかで上級生から虐めに会って頭に傷を負ったとのことだった。
このまま行ったら俺の家族は溶けていってしまうのではないかと考えました。
子どもの頃ぐじぐじしていると、おじいさんが「博、ぐじぐじしている時には野良仕事をやれ」とよく言われていました。
草刈りなどをやったりしていると、体重が軽くなっていくような感じがしました。
13歳になったら一人旅をしなさいという事を我が柳生家では言われていました。
小淵沢から高原列車が走っていて、白樺が好きで、1000mぐらいのところで、そこは小海線、八ヶ岳そこしかないと思い出かけました。
駅のベンチで寝たりして1か月旅をしました。
そのころの森は本当に素晴らしかった。
たぬきはいたし、山鳥もいたし、どうしたら友達になれるのかなあと思いました。
掘っ立て小屋で野宿していたら、ある人が風呂に入っていないんだったら来いと言われて、五右衛門ぶろに入れさせてもらいました。
腹が減ってんだろうといわれて、じゃがいもを出してもらい食べました。
建物は粗末ではあったが、本がたくさんありました。
おじいさんから教わった間伐の方法などを教えてやったり、逆にそこからいろいろなことを学びました。
孫に好かれる方法は強引に孫を連れだして野良仕事の体験をさせることは絶対大事だと思います。
クワガタいるところとか説明してやるとうちのおじいちゃんはなんて凄いんだろうと思います。
生き物だらけのところに身を置くと、子どもたちの感覚は猿や鳥や虫と一緒だと思います。
命の短さ長さとかそういうものではなくて、いい塩梅に折り合いをつけて、確かな未来
の真の髄は懐かしい風景をどれだけ小さいころからどれだけこの歳になっても持ち続けているかではないかと、一つだけ例を挙げておきます。
長男が主催してやっていた自然学校田んぼの学校があり、大都会に子ども30,40人に野良仕事の授業をしてもらって、必ず作文を書いてもらいます。
7割ぐらいはとっても懐かしかったですと書きますが、なぜか体験したこともないのにそう書くわけです。
専門の先生に聞いてみるとDNAの作用だというんです。
おじいちゃんがそう行った体験のことを伝えていかないといけないと思います。