2019年11月6日水曜日

中村一雄(唄三線奏者)          ・元銀行員の人間国宝

中村一雄(唄三線奏者)          ・元銀行員の人間国宝
中村さんは沖縄県久米島出身の73歳、今年国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
銀行員として長年働いた経歴を持ちながらも、ひたむきに芸を磨き続けている中村さんに伺いました。

前触れもなく発表されたので周囲も吃驚私も吃驚です。
重要無形文化財の組踊、琉球舞踊の唄三線の保持者として総合認定では二つ前に頂いているのですが、今回は前触れもなく連絡を受けて大変なことだと思いました。
NHKでまず全国放送されてまずメールなどが舞い込みました。
昭和21年久米島の生まれで、農業が盛んでした。
祖父が三線をやっていて、父も三線で活躍していたので耳に入っていました。
戦争が終わったあとですが、久米島の人が宣伝広報して歩いていたら日本兵からスパイだといわれて家族を含めてやられた(殺された)というのがあり、今でも一つの悲しい出来事として伝えられています。
父は左利きでしたので左で演奏していました。
宴会場とかに父と一緒についていったりしていました。(土)
高校を卒業してから三線を始めて本格的に習い始めたのは24歳の頃からです。
急に思い立って一挺しかない父の三線を黙って持ち出して師匠に習い始めました。
家でも徹底的に人の2、3倍ぐらい稽古をしました。

就職して銀行員になり24歳の頃結婚もして、何か芸を身に付けようという思いもあり、やるんなら徹底的にやろうと思いました。
朝1時間稽古して出勤して、家に戻ってきて又夜中まで毎日稽古をしました。
久米島に「白瀬走川節(しらしはいかわぶし )」というのがあり、愛しい人にあげようと女性から男性へ思いを花に託して表現するという歌の形で、それでは歌います。
声をよく出すために海にのどまで浸かって稽古をしなさいと言われて、よくそれをやりました。
山から集落が見えるが、その集落に聞こえるようにという事で山の上から声の稽古もやりました。
家は農業はやっていましたが、借地で出来上がった米とかサトウキビを地主に渡すわけですが、厳しい条件でした。
久米島では食えないと思って、中学2年の頃に移民予備隊という事で、挫折もあり思うように出来ない時がありました。

農協に入っているころに銀行の支店長が銀行に来ないかとお誘いがあり、沖縄本島に来て本格的に唄三線ができるようになりました。
久米島では激励があったが、本島では仕事をしっかりやらないと唄三線の稽古への影響もあると思って仕事も頑張りました。
シフト勤務だったのでうまく時間を利用して稽古をして、職場の皆さんにはいろいろ助けられました。
54歳で辞めましたが、銀行も芸も忙しくて、そのまま続けたら両方とも中途半端になるという時期がありました。
子どもも3人とも大学も卒業したし、家の借金も無くなったのも重なって芸の道に進むことにしました。
沖縄では芸事だけでは食ってはいけないです。
すべてが芸能人で、誰でも三線が弾けるし誰でも踊りも踊れるという事で、高い出演料をもらえるという事はないです。
沖縄の人口も少ないのでロングランの公演もできない、1,2回の公演ということになってしまう。

色んな関係の役員とかもあって、稽古の時間も取られてしまってきて、重要無形文化財保持者に認定されましたので、役員も減らして時間をつくっていかなければと思っています。
毎月舞台もあり、舞台監督とか演出の依頼もありやはり毎月舞台があるので、来年からはこれも遠慮しようと皆さんに言っています。
組踊も年間6件、平成7年からずーっとやっていますし、海外にも行っています。
40年ぐらい前に南米に行きましたが、久米島から移民していった親戚などもいて、唄三線を歌ったら沖縄を思い出して涙して、話もできないほどでした。
やはり生半可にしては駄目だと思いました。
三線の魅力は、琉球王国時分から上流階級の教養を高めるために始めた音楽ですが、いろんな苦難の歴史がありました。
琉球処分、第二次世界大戦とか途絶えてもいいようなほどいろんな苦難に会いながらも、それを受け継いでこられたのは先達が頑張って来られたという事もあるが、何かがあるのではないかと思います。

沖縄は琉歌(8,8,8,6調)が盛んでそれを三線に乗っけて歌うという事で、感情をあらわす演奏、歌に魂を入れるという事があるものですから、琉球古典音楽は地味ですが、組踊もなくてはいけないし、お祝いであれ悲しい告別式でも歌われる訳です。
魂のこもった唄三線だと思います。
場面場面によって色々と歌詞を変えて歌います。
古典伝統音楽の会長として500名の会員がいますが、ハワイ支部も作って、関東支部も作って発表会をやってきまして、頑張っています。
若い人を中心に久米島の古い民謡も歌っていただく行事も始めて10回目になります。
琉球古典音楽は「死するまで学ぶべし」という言葉があり、一生懸命精進して、伝承して後輩の指導もしていきたいと思っています。