2019年11月21日木曜日

秋山武雄(アマチュア写真家)       ・東京の下町を撮り続けて

秋山武雄(アマチュア写真家)       ・東京の下町を撮り続けて
東京浅草橋の洋食屋の御主人で今年82歳、16歳でカメラを手にしてから洋食屋の仕込みが始まる前の早朝に都内各地にでかけ、撮りためたネガは数万枚と言います。
下町の街角や庶民の日常を切り取った写真は、図らずも戦後復興、変わりゆく東京の記録となりました。
今年は8年間にわたって新聞に連載している写真をまとめた「東京懐かし写真帖」も出版しました。
秋山さんに時にフライパンをカメラに持ち替えて70年近く撮り続けた下町の情景暮らしの変遷を伺います。

3代続いている洋食屋です。
小学校のころから映像のことが好きで中学に入って、写真を好きだとアンケートに書いたら先生からよばれて、カメラの好きな先生の写真の手伝いをすることになりました。
高校に入ったが家庭の事情で父から3か月ぐらいで学校を辞めさせられてしまいました。
辞めるにあたって写真の引き延ばし機を購入することを条件にしました。
昭和28年にはカメラブームが始まり、出前の旦那衆がカメラを持つようになりました。
見よう見まねでできるようになってDPE屋さんへもっていくものを私が引き受けることになりました。
それが月に2000円ぐらいの収入になり月賦でカメラを買うことができました。(16歳)
自転車でカメラを持って写し回るようになりました。
活気のある魚河岸にはよく通いました。
左官屋、畳屋などの作業風景なども撮りました。
自転車で片道1時間半の浦安までも行きました。(漁村風景)
あさり、シジミ売りなども撮りました。
撮る時間は5分程度の短い時間でした。

日曜日もめちゃめちゃ忙しかったので写真は撮れませんでした。
当時は写真を撮るという事は道楽のように思われて、道楽息子と言われないように近所では写真は撮りませんでした。
昭和45年ぐらいから近所でもいろいろ変わってきましたが、それが撮れなくて残念でした。
いつでも撮れると思っていたが、大八車を作る作業なども撮れなかったです。
人物がどんどん変わっていきます。
これは撮っておかないと消えて行ってしまうという様なものを撮りました
30代にカメラを向けたこれは下町の人だと思われるのは60,70代の人たちでした。
下町の人のしぐさなども撮りました。
失礼のないように気を付けて撮りました。
背景をまず決めてこういう人が来たら撮ろうと決めて撮っていました。
5年越しで撮ったものもありました。(「浅草慕情」 評価されてうれしかったです。)

白黒のフィルムでずーっと撮ってきました。
記録に残そうという思いがあるので色はいらないと思っています。
今の60,70代の人たちを見ると生活に根差した「粋」というのが無くなってしまっています。
いかに取撮りこぼしの無いように撮れるかという、長くやっているとそれが一つの訓練でもあります。
自分自身に入り口から出口論という事があり、見つけたときが入り口で、もうちょっと先には出口がありこれだと撮りきれたのが出口で、10カット2分ぐらいで入り口から出口までを処理する訳です。
街のたたずまいが違ってしまっています、木造はもうほとんどないですから。
興味を持つような対象はないですね。
街が雑多だったのが、魅力的でしたが、今はきちんとしてしまっていて、モチーフが面白くなくなってきています。
外に撮りに行くことは殆ど亡くなりましたが、今写真教室を持っていて2か月に一回ぐらい表の撮影会があるので、そういう時に外に撮りに行きます。