2019年11月14日木曜日

内山雅代(駄菓子屋13代当主)       ・雑司ヶ谷鬼子母神の駄菓子屋238年

内山雅代(駄菓子屋13代当主)       ・雑司ヶ谷鬼子母神の駄菓子屋238年
池袋サンシャインから歩いて15分、静かなたたずまいのケヤキ並木の奥に雑司ヶ谷鬼子母神堂があります。
境内の一角に一軒の駄菓子屋があります。
ずらりと並んだ瓶や平台にはばら売りの駄菓子が詰まっています。
色とりどりのセロハンにくるまれたポン菓子、糸で釣る糸引き飴、ノシイカ、のし鱈の串のばら売り。
この店の主、内山雅代さん(79歳)は1781年の創業以来238年続くこの店の13代当主です。
内山さんは小学生のころから祖母と叔母がやっていた店を手伝うようになり、以来70年雑司ヶ谷鬼子母神境内のこの店を守り続けてきました。
店は明治大正と時代の荒波を潜り抜け、昭和の戦火に耐え、江戸の気配を今に伝えているといいます。
お菓子の値札をつけていないので買う時には一つ一つこれいくらと声をかけます。
内山さんは小気味よいテンポでお客さんとおしゃべりを楽しみながら商いをしています。
戦中戦後を生き抜き、平成、令和の時代へと雑司ヶ谷鬼子母神境内の駄菓子屋の店先から内山さんは子どもたちの移り行く姿を見守り続けてきました。
内山さんが238年の歳月を越えて店から受け継ぎ今も守り続けているのは何なのか、伺いました。

ここは関東大震災、東京大空襲から免れているのでこうやって続けられています。
1781年の創業、将軍が10代、11代の家斉、家治の時代だそうです。
ここはもともと加賀百万石の自昌院さんがお建てになっています。(1664年)
本堂は335年になります、国の文化財にも指定されました。
この店を建てたのが明治以前です。
段飾りが低くなっていて昔は膝をついて商いをしていたようです。(お大名だけかもしれませんが)
有名な飴もの屋でしたが、材料が手に入らなくなって現在は駄菓子屋になっています。
10歳ごろから学校から帰ってくるとお店番をしていました。
お菓子は100種類ぐらいありますが、砂糖菓子、お米菓子などです。
昔は30、40種類でした。
きなこ飴は素朴な味です。
外国の人はきなこ飴、おふ菓子、イカ系も買ってくださいます。
糸引き飴も人気があります。
イカとサンマはとれなくなって高くなりました。

若いころは継ぐのは嫌でしたが、覚悟はありました。
母が亡くなって子どもも独立して、一人でやってきました。
鬼子母神は鬼ですが、お釈迦様から諭されて角の無い子育ての神様として祀られています。
お宮参り、七五三、成人式などできます。
子どもが育って、きてくれるのが嬉しいです。
70年以上店構え、並べ方も変わっていないです。
よく店はこんなに小さ家だったっけと言います。
昭和15年生まれ、戦争の記憶があります。
終戦が5歳の時でした。
或る家が翌日には無くなっていたことは記憶に残っています。

その後の食料難があり、お腹がすいて立って歩けない状態で、毎日さつまいもで1,2日食べられない時もありました。
段々食べられる様になり10歳で養女に入りました。
養母は私の祖母の妹です。
70年近くいて母を看取って、今は一人でここで頑張っています。
昭和23,4年には徐々に品ぞろいが出来始めました。
祖母と一緒に大きな風呂敷をもって仕入れをし私がしょって帰って来ました。
昭和30年から45年頃が一番繁盛しました。
オリンピックは24歳の時でした。
今は午前中は外国人の方が多いぐらいです。

実家が川崎で店で仕事をするのが嫌で川崎に逃げたこともありますが、説得されて戻されました。
今は店に携わっていてよかったなと思っています。
この境内は江戸時代と全く変わっていません。
ここに来ると落ち着くといいます。
養母は代々やってきて12代として責任感があったゆえ、後継ぎはないといけないとよく言っていました。
結婚して子供を実家に預けてこの店に通いました。
雨の日以外は店を開けています。
昔風の家なので雨の日は家の構造上店を開くことは難しいです。
14代目がいますが、受け継いでくれると思っています。
店は生きがいですし、勉強の場でもあり、遠方から来る人もいて、いろいろい付き合いをしています。