平野美恵(平野早矢香の母) ・【アスリート誕生物語】卓球ロンドン五輪銀メダリスト
栃木県鹿沼市では平野早矢香卓球大会が毎年行われている。
小中学生対象の大会で市長さんが2013年から開催してくれるようになりました。
主人も私も卓球をそれぞれやっています。
早矢香は明るくて何にでも興味を持つ子でした。
考え方は前向きで負けず嫌いなところもありました。
私と主人が試合に行くときに小さいころから連れてきました。
そういうわけで卓球というスポーツ自体は知っていました。
私が中学で教えていただいた先生とばったり会って、子どもの卓球が盛んだからやったらどうかと言われました。
本人に聞いてみたらやってみたいという事で連れていきました。(5歳)
やりたいなあと直ぐに言いました。
小学校1年生で全国大会にでましたが直ぐに負けて、2年生の全国大会では2位になりました。
家には卓球台はなかったのでクラブの先生にお任せしていました。
自由な時に親が教えると喧嘩になってしまい、私が教えるのは無理だと思いました。
小学校6年生の時に偶然娘と試合で当たってしまいましたが、その時負けてしまいました。
アスリートという意識が無くて、仕事も忙しくて時には夕食にコンビニの弁当を食べさせたこともありました。
小学校の卒業アルバムにはオリンピックに出たいという事が書いてあったようですが、私は記憶にはありませんでした。
言葉として聞いたのはミキハウスで全日本で優勝した頃でした。
北京でメダルを目指したいと言っていました。(18,9歳)
小学校の高学年の頃は毎日の練習は6時半から9時まで、休みの日は水曜日だけでした。
宿題と私が与えたドリルを終わらないと卓球場へは連れて行かないよとは言っていました。
卓球はあくまでプラスアルファだと思っていました。
送り迎えは30分程度ですので車の中でできるだけ話せる場にしようと思っていました。
6年生の6月ごろに仙台育英の校長先生と監督が栃木に勧誘に来ました。
当時は東は仙台育英、西は四天王寺と言われていて、私と主人で見学に行きました。
本人が11月になって行くと言ってきましたが、反対しました。
いじめとか、全日本には行けないかもとか、病気になっても直ぐに飛んではいけないよとか話しました。
高校からならいいといったんですが、勝てなかった人に勝ちたい、高校からでは遅いと言ってきました。
覚悟を聞いていいよと言いました。
でも寂しさがありました。
寂しさは下の2人に救われました。
次女は喧嘩していじめられたりしましたが、早矢香に「お菓子を買って」といって2000円を渡して、帰りの東北道は次女と私は泣きっぱなしでした。
高校時代も仙台で過ごしました。
携帯電話は禁止だったので、公衆電話で決まった時間の15分間話をしていました。
こちらの心配事ばかり話していて失敗したと思いますが、その後なるべく本人からの話を聞くようになりました。
高校3年生の時に進路が決まっていなくて、迷っていたようです。
ミキハウスに就職しました。
北京オリンピックの代表になって本当にうれしかったです。
予選リーグの入場の時にはちょっと涙が出ました。
団体で4位になりました。
ロンドンでは団体しか出られませんでした。
福原さん、石川さんと3人で確実にレベルが上がっていたので、メダルを取りに行ける位置にあると思いました。
銀メダルを取ることができて凄くうれしかったです。
もう一度リオを目指すと言っていました。
シングルスと団体に出たいという思いがあった様ですが、リオの代表を逃して引退を決意しました。
東京があるので迷いもあったようですが、早矢香に任せました。
全日本で優勝するとかの新たな目標はやはりオリンピックとは違ってできないという事でした。
本人の努力とか目標が一つづつ、一歩づつでもクリアすることで夢がかなってくと思うので、スポーツを経験して自分の人間力を高めてゆく事が最終的には大事なことだと思います。
スポーツ選手は引退してからの人生が長いので、その時に自分がどんな存在であるかというのがきちんとできるような人になってもらいたいので、選手本人も周りの指導者の方も考慮して育てていっていただけたらと思います。。