2019年11月5日火曜日

豊竹咲太夫(文楽太夫)          ・命ある限り芸の道を

豊竹咲太夫(文楽太夫)          ・命ある限り芸の道を
今年75歳にして重要無形文化財保持者(人間国宝)認定されました。
父と同じ人間国宝になるまでの道のりを伺いました。

八代目竹本綱太夫の長男として生まれる。
家では生まれてこの方三味線の音が聞こえてきて、父が義太夫に限らず他の邦楽が好きでしたので三味線音楽など聴いていました。
劇場が歩いて5,6分にありましたので、遊び場になっていました。
入門は9歳でした。
民放局で7歳の時に収録があり、父親に連れらてきましたが、子どもを出そうという事になって初舞台を文楽座ですることになりました。
その時の演題が『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)という伊達騒動を扱ったお芝居でした。
舞台稽古の時に恐れ多いことですが、僕が鶴千代君役で一番上座に座って当時は豊竹山城少掾と言えば一番偉い人でその師匠が脇に座ってくださったんです。
今から思えばそんなことはないですが。

昭和19年生まれです。
当時は物資も乏しいし、興行成績も上がらないし、いろんな事情が重なって、その道にいらっしゃた太夫、三味線、人形の御子息たちが戦死なさって後継者が少なかったという事ですね。
松竹株式会社だからできたことだと思います。  
マスコミが盛んに取材してくれました。
初舞台のときには右も左もわからず、当時生意気で新富町の旅館からで公演先の新橋演舞場に人力車で通っていました。
小学校、中学校に進んでいって、中学になると声変りをしてそうすると限られた演目しかできないようになってしまって、しばらくでたりでなかったりしまして学業に重きを置いた時期がありました。
高音が出にくくなって、舞台に立ってもやってみないとわからないような感じでした。
義太夫の場合は洋楽でいう4オクターブでないといけないので、限られたものしか出られませんでした。
楽屋にはしょっちゅう遊びに行っていたというのが正直なところで、そうすると自然と演目に関することを教えられなくても入ってきました。
楽屋の空気を吸うという事は自然と覚えてくるものです。

今は義太夫の字幕が出るのでわかるようになりましたが、数を見ていただく以外にないです。
今は忠臣蔵が判らなくなってきたり、源平の戦いでも源氏と平家の区別が判らないし、こんな時代で本当に難しい時代になりました。
古典芸能の場合は一番上はお能、狂言、二番目が文楽、三番目が歌舞伎と言われて、その順番で世界遺産になりました。
どういう風にしてお客さんにわかっていただけるか、近松門左衛門は外国の人が知っていただけるが、日本では近松門左衛門を知らない人もいて、大阪にいたという事も知らないという事があります。
近松門左衛門の作品は入っていただくと判り易いが、こんがらがって難しいものは嫌だという事になってしまいます。
判り易いものだけをやるというのも、いわゆる「通」と言われる人たちが離れて行ってしまうので、プロデューサーとしては難しい所です。

20歳の時に咲太夫に改名して、それからずーっと咲太夫で来ています。
竹本綱太夫から咲太夫の襲名の時にいろいろな候補がありましたが、師匠の裁断で咲太夫になりましたが、9代目が明治3年に亡くなっており、竹本咲太夫を名乗っていました。
昔は竹本流と豊竹流がありトレードがあったみたいです。
初代豊竹咲太夫という名前に改名し、紋は島津家と同じ丸に十字の紋でした。
或る学者が本を持ってきてくれて、それが初代豊竹咲太夫の墓石の図が見つかって、(義太夫大系図)拝名が男徳斎と言って、その墓石の上に丸に十の紋があったんです。
その人の生まれ変わりかと思いました。
9代目の命日の日にそれが判ったんです、運命的な思いがあり、一生豊竹咲太夫という名前は変えないようにしました。

10年前に「切り場語り」という文楽のクライマックスをかたる最高峰の地位に就く。
実際には20歳ぐらいから語っていますが、「切り場」になったからと言ってどうといった感じは無いですが、責任は感じます。
シリアスなものをやるときには気が重いです。
落語を聞いたり、演劇を見たりして勉強しています。
「知らないよりも知っている方がいい、やらないよりもやった方がいい」これは父親の口癖でした。
50歳の声を聴いてようやく、太夫らしい声になってきたのかなあと思います。
関西の演劇の人たちは割と悪声です、義太夫に縁があるんでしょうね。
今の子はしつこく言うのをあまり良しとしないところがあり難しいし、大阪出身の人が少ない。
後進を育てるというのが一番頭が痛いです。
昔はこうやらなくてはいけないとか、心理描写はどうとか、いろいろ考えましたが、いまは考えないでやっています。