2019年11月7日木曜日

兼元謙任(インターネットサイト運営会社経営)・ホームレスから会社上場へ

兼元謙任(インターネットサイト運営会社経営)・ホームレスから会社上場へ
53歳、在日韓国人3世として生まれた兼元さんは小学生時代いじめにあい、一時は車椅子生活を余儀なくされたこともありました。
高校生の時に日本に帰化、大学を卒業した後デザイナーとして働き始めました。
ところがあてにしていた仕事ができず、工事現場や公園で寝泊まりするホームレスの日々が続きました。
そのころ知り合った人から甘えるなと一喝されたことが契機となり再び仕事を探しようやくデザインの仕事を受注することができました。
その後インターネット上で利用者が質問と解答を利用するサイトを立ち上げ、会社は急成長、2006年に株式の上場を果たしました。
兼元さんに軌跡やそこから生み出された考え方について伺いました。

今会長になったからやる事は社長時代より少なくなりました。
名古屋で在日韓国人の3世として生まれました。
在日だという事で小学5年生の時友達に知られていじめがありました。
髪の毛をつかまれたり、殴られたり、トイレに押し込められたりと、あらゆることを経験しました。
韓国の言葉がしゃべれなくて国籍が違うという事だけで、いじめにあったこと自体理不尽の一言だったと思います。
ただ耐えることしかなかったです。
ストレスが溜まって、免疫系が壊れたしまって神経に菌が入るところまで免疫が落ちてしまって、ギラン・バレー症候群という診断を下されて車椅子に乗らざるを得ないところまで行ってしまった経験をしました。(小学校6年~中学1年生の頃)
ステロイドの集中投与をしていただきそのことで助かったが、つい先ごろまで実はその女医を恨んでいて、人をモルモットのように扱って、背中から髄液をぬいたり、手に針を刺して筋力を測ったりして治療していました。
恨んでいたが実はそれが一番効力があったと、つい先ごろ知っていい方向に向かったんだと思います。
段々回復するようになりました。

祖父が韓国から中学校の時に渡ってきて、両親も学校に行けなかったりして、このまま日本にいるいるならば国籍を取ることが必要であろうという事で、日本国籍を取ることを両親が決断してそれに従いました。
いじめ、両親の体験を見ていると、先々かなり悲観的に見ていました。
愛知県立芸術大学のデザイン科に入学しました。
周りは2浪、3浪している人たちが多くて、絵も上手いし経験も積んでいるので私は落ちこぼれでした。
課題を彫刻の人とか他の分野の人と相談して作成したり、自分の経験を生かして身障者のデザイン(ユニバーサルデザイン)をどうしたらいいか研究会を立ち上げました。
色々コンペがありそこで志を同じにする人たちがいて研究会は大きくなっていきました。
京都のデザイン事務所に就職しました。
研究会を通して知った或る社長さんからうちに来ないかとヘッドハンチングされて、名古屋の建築会社に入ることになりました。
そこでは働くことが上位で、デザインでは体を動かさないでクーラーの効いた室内でパソコンを扱って遊んでいるのがデザイナーだという様な偏見がありバッシングがありました。

ある経営者の雑誌を見て社長さんが或る街をデザインで作り替えるんだと言っていて、直接電話しました。
研究会のことは並行してやっていたので、いきさつ、成果などを説明しました。
身障者でも使えるパソコンのデザインをしてそれを提案して、それをアメリカで作ろうという事になりました。
メンバーも選定した時に、活動資金を持っていかれたようなところもあり、賞とかでお金をもらっていたが、一緒にやってきた仲間が新しい活動に使っていたもので皆さんに還元しなかったので、付いて行っても利用されるだけだと思い、仲間から離反がありうまくいきませんでした。
そのころは結婚していましたが、妻から離婚の届けがありました。
社長さんから研究会から離脱したあなたにはもう価値がないといわれてしまって、いじめ、離婚よりもダメージがあり、目の前が真っ暗になってしまいました。
東京駅の再開発工事をやっていて大きな下水管のところで一夜を明かしました。
翌朝工事に来た人がお弁当を廃棄処分するものを配っていてそこに連れて行ってくれて、消費期限切れのお弁当をわけてくれました。
嬉しくて涙が止まらなくなりました。
公園、駅のロータリーなどで寝泊まりすることになりました。
気持ち的に自由な感じがして楽な気持になりました。
思い出すのは妻と子どもの事だけでした、家族は大事だんだなあと思いました。

ホームレスは2年程度続きました。
働きながらホームレスをやっている人がいて、自分と同じようだという中国人の女性がいるということでその女性に自分の鬱積をきいてもらいましたら、その女性から顔を殴られました。
彼女は中国の田舎で育って貧しい生活をしていたが、どうしたらいいか考えたところ、ある本を開いたら日本という国は原爆を2発落とされたくさんの街が絨毯爆撃され、それでもGNP2位まで這いあがったという記事を見て、これは絶対行かなくてはいけないと思って、いろんな手を尽くして日本に来た。
赤々と24時間電気がつけっぱなし、食べれるだろうというお弁当を捨て、水はだらだらで止めない、30そこそこでちょっと虐められたぐらいのやつがこんなところでホームレスをしているのかというゲンコツを受け、心に響く一発でした。
甘えていたんではないかという事と、今の自分にも何かできるんじゃないかという風に思わせてもらった。

もう一度東京の流通会社の社長さんに仕事をくださいと申し出ました。
デザインの仕事を発注を頂きました。
名刺マークのリデザイン、会社のカタログなどを持っていきました。
いいねと受け取って、報酬は1000円でした。
金額に変えられないお金だったと思いました。
会社の紹介をしてもらって段々デザイン料も多くなっていきました。
自分に生活費として一日400円としてそれ以外は妻に送りました。
それまでは不安に駆られた欲だったような気がいますが、正しい道を見つけられたような感じになりました。
ウエブ、ホームページのデザインがちょっとづつ出はじめて来た時で、ホームぺージのデザインをやる事になり、知識がないのでインターネットにつながったパソコンから質問をさせていただく機会がありましたが、自分の知りたいことがインターネット上でわからなかった。
インターネットで質問したら回答を得られればこんなにいいことではないかと思いました。

Q&Aサイトを立ち上げました。
子育ての悩みで自殺まで考えたという様なことに対しての質問と解答がありましたが、300万ビュウを越えて皆さんに閲覧されることになったというのがつい最近の事です。
こういうサイトを立ち上げたいと、いろいろ持ちかけたがすべて断られてしまい、妻と子どものことを思い浮かべて、こういうサイトをつくりたいと名古屋に帰って妻に報告しました。
今までの謝りとこういうサイトをつくりたいと言ったら、今まで送っていた400万円ぐらいのお金を使わずに持っていて、このお金を使ってほしいと妻が言ってくれました。
それをもとにサイトを立ち上げました。
Q&Aサイトで3000人ぐらいのお客さんが来た時に、或る企業がQ&Aサイトをベースに新しいシステムをつくってくれないかという依頼を受けたのが収益のきっかけになりました。
ショッピングモールとか、車会社さんのお問い合わせの窓口にシステムを提供させていただき、一般のお客さんのQ&Aサイトと連携する形で、月額の費用を企業さんからいただくという事になりました。

2006年 会社の株式が上場されることになりました。
株式の時価総額については証券会社さんと相談する中で思っていた以上の価値を評価されました。
こんな友達がいたのかという様ないろいろな友達から、お金を貸してほしいという事でお金を貸してばらまいてしまって、その後音信不通になったりしました。
今は1年間で売り上げは40億円ちかくになっていて、従業員は300人近くになっています。
すべては繋がっているんだなと思っています。
虐めにあったことも、妻との関係も、友人に裏切られたことも含めて、その時にはショックでしたが、いろんな学び教えを頂いたような気がします、それがあったからこそ今続けられているし、ここに立てているんだなあと思います。
20年前のインターネットで変わったように、今また転換期が来ていると思います。
会社もピラミッド構造ではなく、それぞれが有機的に繋がってくる新しい組織形態、考え方も必要になって来るのではないかと思って、皆さんと一緒に考え啓蒙していけたらと思っています。