2019年11月22日金曜日

小田貴月(高倉健 養女)          ・【わが心の人】高倉 健

小田貴月(高倉健 養女)          ・【わが心の人】高倉 健
高倉 健さんは1931年〈昭和6年〉福岡県中間市出身です。
昭和30年ニューフェースとして映画の世界に入り、任侠映画での存在感ある演技で生きづらさを感じている男性たちの心を捉えました。
その後は「幸せの黄色いハンカチ」など人情味あふれる役で女性たちのファン層をひろげました。
海外でも高く評価されています。
平成26年11月10日亡くなられました、83歳でした。
養女の小田貴月さんは17年間高倉健さんとともに暮らして最後を看取りました。
先月高倉健さんとの日々をつづった本「高倉健その愛」を出版されました。

亡くなる2年前に「僕のことを書いてね」と或る日脈絡もなく話しました。
病気もなくまだ元気の時でした。
「判りました」と返事をしました。
自身が出演したもののインタビュー記事などが丁寧に残っていました。
まず目を通すことから始めました。
ファンの皆様が何よりも増して大切なものだったと聞かされていたので、高倉の思いをファンの皆様にお伝えする機会を頂いたと思って丁寧に目を通す事から始めました。
高倉は写真を撮られるのが苦手な人でした。
時たま撮ってくれという様な時がありました。
2014年亡くなる年の元旦ですが、戦中戦後の人なので食事を残さないというのが第一希望でしたので、食べたい分量だけ出すようにしていましたが、残したことのない人がお雑煮を残したんです。
残すことが徐々に増えたんです。
仕事が決まっていましたので念のために検査をすすめたんですが、行かないといったんです。
自分の体調が悪くなって仕事に支障をきたすことを心配して泣いて頼んだら、泣いて頼まれるんだったら行ってやると言ったんです。
4月7日に検査入院したら、そのまま入院することになりました。

一旦よくなり仕事もしましたが、悪性リンパ腫という病気で、一旦は収まるが体調次第だという事でしたが、11月に入って急に家で測った数値が今までとは全く違って急遽入院しました。
最後の最後に担当医の人が来てくださって、「高倉さんはご自分で逝けます、大丈夫です、だからそばにいてあげてください」といって・・・お別れをさせてくださいと言って・・・。(泣きながら言葉を詰まらせる。)
次に決まっていた映画のことなどを話して、映画としてみたかったなあと思いました。
担当医の先生に映画のことの話をして、担当医の先生は映画のストーリーは全部ご存じでした。

女性誌の連載がありいろいろなところに行きましたが、香港のホテルで食事をしている高倉健さんをお見掛けしました。
パーテーションを挟んでデザートを頂いていたところに高倉健さんがわざわざきてくださって、「わざわざ気を使ってくれてありがとうございました。素敵なお仕事を続けてくださいね」とスタッフとともにいたところに来て、言って去っていきました。
担当の方からスタッフ全員に名刺をくださいました。
気を使っていただきどうしたらいいんだろうと思って、いろんな思いを手紙に書いて名刺の住所に送りまして、それから文通が始まりました。
私の知る限りどんな方のお手紙にもタイムラグはありますがお返事を出していました。
当時ドラマを撮っていたその感想を書いた雑誌と自身の著書を送ってくれました。
「僕は幸せになれていない」という風なことが読みとれました。
文通が1年ぐらい続きました。
イランに取材の時にお見送りしてくださって吃驚しました。
高倉さんは以前イランへ長期ロケで行ったことがあり、状況を知っているので非常に心配だったようです。
イランでいろんなドラマがありました。
ファクシミリ、電話などで心配してくれる連絡があり、その後一緒に暮らすという事になりました。

60代の後半、こちらはまだ若かったですが、気にはなりませんでした。
人間高倉健が何を求めているのか、という事を高倉が周波数を変えながらいろんな情報を出してくれることに対して必死についていった、戸惑いをおぼえつつ本当に役に立てるか立てないのか、そこしか考えていなかったです。
公のところには一切でかけてはいませんでした。
希望としてはお化粧はしないでほしいという事だけでした。
夏に日焼け止めをぬったんですが、ジーっとみられて「おかしい」と言われました。
17年間お化粧を買ったことがなかったです。
高倉は一輪挿しが好きでした、凄く感受性が豊かでした。
魚は駄目でした。
魚介類の匂いが駄目で、肉は好きでした。
アルコールは一切飲みませんでした。

自分の主演映画は自宅では見ませんが、デビュー作「電光空手打ち」1956年の映画を一緒に家で楽しんで見ていました。
寡黙なイメージがありますが、ロケ先でのいろんなことを家ではすべて話してくれました。
「ぽっぽや」平成10年公開映画 一緒に暮らしたころの最初の映画でした。
北海道の極寒の地でのロケで大変だったようです。
どんな役にも対応できるようにしておきたいというのが高倉健だったので、家でリラックスすることと、待っている間にいかに体調をキープし続けるかという事で、ストレッチ、木刀を振る、ウオーキング、声の鍛錬などをしていました。
ハリウッド映画に出演した時には発音に関してはトレーナーの方から物凄く教えられて、メモを取って英語の早口言葉をずーっと定期的にやっていました。
貿易商になりたくて大学に入って英語だけはという思いがあったようです。

興が乗ると好きな曲をかけて、日本舞踊を踊ったりしました。
「風雪ながれ旅」(歌 北島三郎)は大好きでした。
曲をかけて途中から一緒に歌い始めて、そのあとは踊っていました。
コメディー的なものも本人の中にはとってもあって、それを映画にできたら面白かったのになあと思いました。
本も好きで5000冊ぐらいありました。
CDも沢山、車の中で聞くことが好きでした。
本も出版していて、独特の感性で、少年の目を持った、どんな人に対してもまっすぐに向き合ったと感じています。
生き方の姿勢にも宗教者に通じるようなものを感じます。
看取った私としては、全力で寿命を全うした人、そして初めて小田 剛一(本名)に戻ったと思いました。