2019年11月23日土曜日

為末 大(スポーツコメンテーター)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】

為末 大(スポーツコメンテーター)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】
為末さんは1978年広島市生まれ、41歳。
オリンピックは2000年にシドニー、アテネ、北京と出場し、世界陸上選手権では2001年、エドモントン大会、2005年ヘルシンキ大会2大会で銅メダルを獲得しました。
2012年現役を引退、以後はスポーツとテクノロジーに関するプロジェクトを行う企業の代表やスポーツを通じた国際交流など幅広く活動しています。
為末さんは現役時代から何をどのタイミングで食べるか、など食とスポーツの関係に関心を持ち実践してきました。
一方スポーツ選手の中でも読書家と知られる為末さんには多くの著書がありますが、このほど絵本を出版されました。
トップアスリート為末さんの食に対する考察とご自身の舌の記憶、出版したばかりの絵本について伺います。

絵本「生き抜くチカラ」 僕は言葉で絵は松岡さんが担当しました。
絵本のコンセプトは大人も判る本当のこと、本気のことを子どもにも伝わるようにという事でやっています。
僕にも5歳の子がいて、生きていく中でこれは知ったり考えた方がいいのではないかという事を伝える方法はないかなと思ったのですが、絵本という形で作れないかと思ったのがきっかけです。
言葉の中には「せっかくここまでやったんだからには要注意」、このまま行っても上手くいかないんじゃないかと思う時でも「せっかくここまでやったんだから」と変わられないでいることもあると思う。
これから続けるにしても今までやってきたから続けるのではなくて、今日が新しい一日で、今までやってきたことが全部なかったにしても、昨日やったことを今日もやりたいのか、という事を毎日自分に質問するのが、大事なんだと思うようになったことがきっかけになりました。

100mではスランプもあり世界ではとても差があり無理だと思って、400mハードルならば行けるのではないかと思いました。
難しい競技だと思ってしっかり技術を磨けば行けるのでは、と直感的に思いました。
オリンピックに初めて出たのが22歳で、この道を行ってよかったんだと思うようになりました。
自分がこれを続けるという事は、選べなかったもう一つの人生があるんだという事を頭の中で考えてみることも必要だと思います。

「人からの評価に自分が乗っ取られては駄目だ。」
18,9までは陸上競技を好きでやっていると思たのですが、オリンピックに出たのが22歳、初めてメダルを取ったのが23歳ですが、応援する人の数が急に増えました。
みんなの期待に応えなければと思うようになり、自分がやりたいのか、人の期待に応えたいのかというのが混じってきてしまいました。
勝たなければいけないという思いが強くなり、自分の心が苦しくなる時期があり、父親からシンプルに「やりたいようにやれ」と言われ、心が楽になったという事があります。
深刻に考えるか楽観的に考えるか、見方を転換してくれるようなことも大事です。
父親は食道がんで余命半年といわれていて、最後の頃は「やりたいようにやれ」としかいいませんでした。
会社を辞めてプロになったのも、それが一つのきっかけでした。
本が好きで、自分の人生にとってもとても大きかったです。
本が多かった家で父親が読み聞かせをしてくれて、小学校の頃には本が好きになっていました。
自分の子どもにも一日5冊ぐらい読み聞かせをしています。
子どもも言葉が好きになると思っています。

一番記憶の残っている食べ物は、2001年に世界陸上選手権エドモントン大会があり、予選、準決勝を抜けて全体の2,3番目で通過しました。
急にメダル候補になり、寿司を食べたかったが朝原さんから生ものは明日どうなるかわからないからという事で渋々うどんを食べました。
そしてメダルを取ることができました。
その風景を覚えています。
食べ物はバランスよく自分の頭でいろいろ選択する必要があると思います。
食べるべきというのは試合の前は炭水化物を少し多めに食べます、だからうどんは正解でした。
揚げ物、生ものは避けたりします。
自分の国の炭水化物をみんな食べたがります、パン、パスタ、お米、麺類など。
日本の選手は餅、お米が多いです。
心にとっていいもの、身体にとっていいものを混ざったちょうどいいものを食べます。

子どもの頃は好き嫌いがありましたが、中学生の頃本を読んで、嫌いなものも食べるようになりました。
大学では寮に入って、1週間に一回40人分を2人で作るという事があり、料理をするという事を体験しました。
それから料理はちょくちょくやるようになり、子どものお弁当を週4日毎日作るようになりました。
おにぎり3つ、ウインナーとか卵焼きとかおかず、野菜とか作ります。
現役時代もその後も食事で体重制限をするという事はなくて、自分の舌がご飯、魚、お吸い物など低カロリーのものが好きになったという事は大きいです。
2012年に現役を引退しましたが、体重はあまり変わっていないです。
一日1万1000歩ぐらい歩いています。
食べ物は普通に食べています。
現役の時には4回食べていて、量は今の3倍ぐらいは食べていたと思います。
或る人から「あなたはあなたの食べたもので出来ている」と言われたことがあり、現役の時にはそういった目線でとらえていました。
言葉も自分の発した言葉で自分が作らているようなところもあると思います。

アジアの選手たちの支援をやっていて、ブータン、ネパール、ラオス、スリランカ、カンボジアで今ちょっとずつ増えてきています。
現地に行っての指導と、年に一回日本に招いて共同合宿という事を2月にやっています。
各国の交流ができるのではないかと思ってやっています。
いつでも選手が出入りできるような常設の選手村みたいなものがあればいいと思っています。
仲間のコミュニティーができてきています。(スポーツ外交)
2020年はやりたいことが一つあって、三段跳びの織田 幹雄さんが大会後自宅を半分解放して世界中の跳躍選手を招いてお茶を飲んだりお酒を飲んだりして開いていたらしいですが、交流が生まれてその後世界にネットワークみたいな形で残って行ったという事で、こういうことに近いことが2020年にできないかと思っています。
只試合をしに来るだけではなくて、日本が縁結びになって世界にネットワークが残ればいいなと思っています。
祖母が被爆者で普段は話さなかったが、亡くなる前に原爆の話をしたり、平和とはどういう事だろうと思った時に、世界中で交流している状態、個人的に友達がいる状態というのは、戦争をするという選択がしにくくなる抑止力が働くと思うので、スポーツを通じて世界中に友達を作っておくことで多少なりとも平和、世界の安定に貢献できればいいなあと思っています。