吉澤久子(保育園元園長) ・全力人生~母、園長、そして画家として
30歳の時に自ら保育園を立ち上げ園長として勤めてきましたが、60歳の時に突如足が動かなくなり、そのころ絵を描き始めました。
身の回りにある画材を使って自由に描かれる吉澤さんの作品はフランスの著名な画家の目に留まり、2016年モナコ日本芸術祭で芸術創造賞を受賞 、その後ヨーロッパを中心に高い評価を得ています。
二人の息子の母として園長先生として遅咲きの画家として、何事も全力で取り組んできたという吉澤さんにこれまでの歩みを伺いました。
はがき大ぐらいから全部合わせると4000枚を描いています。
人に差し上げたりしています。
保育園の合間にインテリアコーディネーターをしていました。
40歳代前半でした。
「孤高の豹」実際の豹の目などはグリーンではありませんが、豹の絵で目と耳と鼻の部分は色をアレンジしています。
学校を出たら銀行に行って結婚を機に引っ越してきて、まったくの田舎で何にもなくて食べてゆくのにどうしたらいいかわからなかったが、小さな菓子問屋ではたらいていました。
無認可の保育園に1歳の子どもを預けるのに3万円掛かり、給料が5万円で貧乏な生活をしていました。
コンピューターの操作ができたのでやっていたが、仕事の内容に比べて短大で入ってきた人のほうが給料が高くて談判をしましたが駄目でした。
一生懸命勉強して保育士の国家試験を受けることにしました。
一回で全科目合格しました。
保育園を作るにあたっては行政との交渉から銀行との資金繰りなどを何とか行って立ち上げることができました。
新卒者を6人雇いましたが、こちらが変わらないといけないと思って、講習に行ったり、研修を受けたり学んでいきました。
夜に新幹線を使っての大学に行きました。(38歳で入学)
2年間で全科目とって4年の時に卒論を出して卒業式に出ることができました。
若いころは島を含めて日本中いろいろ旅をして歩きました。
子どもに対しては小学校の時には参観日にはいかないし運動会もいかなくてほったらかしでした。
私が仕事ができなくなると食べていけないからという事は子供たちは知っていましたから。
60歳になったら軟骨がすり減って突然歩けなくなりました。
手術をして人工関節の受けをはめ込みましたが、血流が悪くてむくんでしまって歩けないのでしばらく車いす生活をしました。
リハビリを3年間行って、やっと立てるようになり両方に杖をついて歩くようになりました。
ようやく杖なしでも歩けるようになりました。
気分的に解放されて、書道もやっていたが大きな書はかけないし、絵を描こうと思いました。
国内の作品展に出展して落選はありませんでした。
「モナコジャパン」という雑誌の表紙を飾ってるのが私の写真です。
グレー・スケリーの生誕90周年のお祝いの席で配ったものです。
実際に描いたのは2009年で、ボール紙に白いワンピースを着た女性が青いソファーに腰かけて微笑みながらこちらを見ている、という感じです。
フランスの一番大きな古い美術団体の会長(アラン・バザール)から高い評価をしていただきました。
そんなことがあるのかなあと不思議な気持ちでした。
「孤高の豹」が受賞後、海外の作品展に入選しています。
動物、花の作品が多いです。
カバの作品も色使いがカラフルになっています。(スペインでの受賞作品)
保育園にいる時が自分らしく居られるところだと思います。
財産に執着していてもいい人生は送れないと思います、内面が充実しないと思います。
心がめらめらと動く時があるかもしれないが、その時にはちょっと大き目なものに挑戦
してみたいと思います。
今までで一番大きいのが30号ですから。
エンディングノートを書いていて、お墓はいらないと書いています、創設者なのでその石碑があるので、その石碑に私の名前が書いてあるので墓代わりになるので。
葬式もしなくてもいいが、最後に送り出すときには大好きな「真珠採りタンゴ」の曲でもかけてくれれば最高だと書いています。