2019年7月15日月曜日

太田義昭(太田雄貴の父)         ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト

太田義昭(太田雄貴の父)   ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト
2か月に一回ぐらい雄貴と会って食事などしています。
日本フェシング協会会長として現在活躍中。
自分の工夫とアイディアをだしながら進化させるのが好きなようです。
フェンシングを通していろんな方と出会う中でそういったものが培われたのかなと思います。
3人兄弟の末っ子で、いろんな運動が大好きでやっていました。
負けず嫌いなところもありました。
私が高校の時にやっていたので、フェンシングをやってみないかといいました。
私も妻も小学校の教員をやっています。
子どもの笑顔が素敵なので子どもがにこにこしている状態を常に作りたかった。
子どもの気持ちになって考えるという事はしていました。
雄貴は小学校3年生ぐらいからフェンシングを始めました。
やっているとそれなりに結果が出てきました。
初めて6か月ぐらいで3,4年生の部で3年ぐらいやっている子に勝って優勝してしまいました。
そこから突っ走っていったように思います。
本当に自分の好きなところで成長してくれる一つになってくれればいいなあと思いました。

小さいときには僕が教えていましたが、クラブチームにも所属していて、そこのコーチにもしてもらって4年生の後半ぐらいからは、東京のほうに行って教えてもらうようにもなりました。
怪我した時もテーピングして練習したり、熱を出した時にも頭にぬれたタオルを巻いて形だけでもやろうという事でやったりしていました。
小学校3年生の5月1日から4300日休まずに練習してきました。
ドイツに短期留学して、ドイツでは練習しない時をきちっとして、メリハリをつけるという事でそれからしばらく練習を休むという事にしました。
3年続けると本物になっていくと思います。
そうなるともったいないあという事になり続けてきました。

2008年の北京オリンピックで銀メダル、2012年ロンドンオリンピックでの団体銀メダル獲得という事になりました。
高校ぐらいからは当人が一生懸命やりました。
自分が納得できないことはしない、どうしたらいいかを的確に考えてやった結果だと思います。
海外に行くと経費が掛かったし、勉強の時間も取れなくなるので、妻はフェンシングだけやっていていいのかという風な思いもあったようですが、フェンシングを通して人間を作れて海外にも行って、自分と力をいろんな人と比べながら暮らすのもいいのかなあと思って、その場を濁らしたこともありました。
妻はもっと勉強もという思いはあったようです。
高校インターハイを3連覇して、それを妻は見て感動しました。
以後は子供の活動を楽しみにするようになりました。

子育てをやるなかですこしずつ料理をやるようになって、うまいといわれるようになって私がつくるようになってきて、妻のおかげでできるようになりました。
フェンシング以外に注意したのが食事です。
一食10品ぐらい、自分のできる物をうまく組み合わせて料理していきました。
5秒で作る卵焼きを雄貴の奥さんに伝授しました。
子どもの才能を伸ばすためには、早咲き遅咲きがあるので、いろんなことを仕掛けてゆくことは必要かと思います。
子どもの反応をメモしていく。
まず3日やってみる、そうすると1週間は何とかなるが、1か月はちょっと難しいが、1か月過ぎたら大体向いているかどうかがわかる。
褒めることは大事だと思います。
小学校3年生は褒めると勘違いすることもあり、それも方向付けには大事です。
私のレベルは低くて、サービスばっかりしています。
子どもともに活動することで成長する姿を見るのは楽しいと思うので、自分自身を高めるチャレンジをしてもらうことで、子どもも成長させていただければと思います。