2019年7月30日火曜日

林家正楽(紙切り)            ・【母を語る】

林家正楽(紙切り)            ・【母を語る】
1948年 昭和23年東京生まれ 東京都立小石川工業高等学校を卒業後、働きながら紙切りを学びます。
昭和42年2代目林家正楽のもとに入門、昭和45年林家一楽の名前で師匠の代役として初高座に上がります。
昭和58年第13回国立演芸場花形新人演芸会新人賞を受賞、昭和63年に林家小正楽襲名 、平成12年9月3代目林家正楽を襲名、襲名披露興行では紙切りで寄席史上初のトリを務めました。
お客さんのリクエストに応えて、しゃべりながら時事ネタからスポーツ、芸能ネタまで素早く切って見せる鮮やかな手さばきが人気です。
幼いころから母のそばで手仕事を見て育ったという正楽さんに伺います。

寄席の紙切りですが、落語協会は現在3人います。
もう一つの落語芸術協会も3人います。
私が入ったころは落語協会は師匠と私だけでした。
何も書いてない白い紙で形を作っていきます。
お客さんからお題を頂いて紙を切っていきます。
そのまま黒い台紙に入れてみせるのと拡大して見せるのとがあります。
紙の大きさは人によって違います。
私はA4の紙を使っています。
紙質は自分の好みのものを使っています。
例えば「テニス」という題で大阪なおみの特徴をつかんでわかるように切ります。
新聞、週刊誌を見て勉強します。
「夏」という漠然とした題では風鈴、夕涼み、花火、カブトムシなど結構多いです。
題で苦労するのも面白いです。
7月の声を聴くと七夕などが出てきます。
話をしながら体を動かしながらお客さんに退屈させないためというのがあります。
初代林家正楽の体の揺れ方がかっこよくてきれいでしたので、そこに近づけようとはしていますが。

小さいころは引っ込み思案でした。
小学校の通信簿では授業中私語が多いと指摘されていました。
3人兄弟で二人の兄がいました。
喧嘩はあまりしませんでした。
兄は活発で頭がよくて絵がうまくて、スポーツもできて凄い人で僕とは全然違います。
僕は運動神経が全然駄目でした。
母親は素敵な母親でした。
母親は絵も上手で手先が器用でした。
小学校1年の時に国語の教科書を無くしてしまって、その通りに教科書を丸ごと絵と字をそのまま書き写してしまいました。
小学校2年の時に絵画教室が何軒かあって、あるところに決めて1週間に2回ぐらい行っていました。
母が日本人形を作っていて、習っていたがそのうち教えたりしていました。
パーツなどを手伝わされましたが、遊びの延長みたいでやっていました。
家には藤娘など写真がいっぱいありました。

当時は落語を一杯ラジオでやっていました。
寄席に行きたいと思っていました。
中学の時には親に連れられて寄席に行きました。
その後は一人で行くようになりました。
初代の正楽なども見ました。
落語家になろうとは一切思いませんでした。
紙切りになろうと思たのは、高校を卒業して会社に入ったんですが仕事が面白くなくて、たまたま寄席に行ったときに、師匠(小正楽)の高座を見ているうちに俺はこれをやるんだと思ってしまいました。
弟子になりたいと思って、住所を聞いて埼玉県の春日部に行きました。
しかし、怖くなって帰ってしまって、手紙を書きました。
会って弟子にして下さいといって、弟子になることになりました。
馬を切ってくれてそれを見ながら作りましたが、最初はすごく時間がかかりました。
母親は紙切りになる事には反対はしなかったが、悲しい顔をしていました。
5年経って林家一楽という名をもらって、師匠が時間がダブってしまって、行くことになりました。

以後、寄席以外の場所でも仕事があって段々自信がついてきました。
母親に切ったものを見せましたが、良い悪いは一切言いませんでした。
母親は知り合いを集めて寄席にきてくれました。
兄は手が器用でした、学校の先生をやって今は退職しています。
向いているとか向いていないというようなことは絶対わからないですね。
紙切りは見ればわかるので、日本文化をほかの国の方に見てもらうという事で、20年ちょっと前までいろんな国に行きました。
富士山、三味線、生け花とか日本では出ないものが出てきます。
どこへ行っても注文があるのが龍ですね。
日本の行事のことを切っているときが一番楽しいです。
1月に七夕という注文がありましたが、思い出すまで時間が掛かりました。
お客さんによって「気」があるときと「気」がない時があり、それで出来が全然違ってきます。
今度台湾に行ってきます。
好きなことをさせてくれたという事は母親には感謝しています。