原田泰治(画家) ・にっぽんのふるさとを描く
1940年長野県諏訪市生まれ79歳、1歳の時に小児まひにかかり両足が不自由になります。
大学卒業後は故郷諏訪市でグラフィックデザイナーとして仕事をする傍ら、少年時代を過ごした田舎をテーマに絵を描き始めます。
全国各地を取材した詩情豊かな作品は、1982年4月から2年半に渡り全国紙の新聞に掲載されました。
日本から失われつつある故郷の風景や祭り、風物史など後世に残しておきたい風景を描き続ける原田さんに伺います。
諏訪市の看板屋さんの家に生まれる。
兄弟4人で一番下です。
諏訪市から飯田(伊賀良村)に疎開して開拓農民として父は仕事をする。
母親(38歳)は2歳の時に看病疲れで亡くなる。
僕のことを考えてくれたのか、足の悪い新し母親と一緒に飯田で過ごすことになる。
4,5歳のころ動けないので高台の家から風景を眺めていましたが、それが原点になったと思います。(鳥のような俯瞰的な目)
遊び場へ友達に背負ってもらっていったが、動けないので自分で一人で草花など見て遊んでいました。(虫のような目)
見ていていろいろ発見がありました。
四季の移ろいの風景を飽きずに見ることができました。
その後また諏訪に戻ってきて、中学、高校は諏訪で過ごすことになる。
中学では空を描いていて、先生からはあまり描かなくていいから要領がいいと言われて、自信を失い絵は駄目でした。
父の兄弟は12人いて4人は芸術家でした。
叔父さんが銀座でデザインスタジオを20人ぐらい使ってやっていたのでそこへ行けばいいと思っていましたが、もう時代が違うから高校大学に行くべきだと諭されました。
それまで勉強は何にもやっていなかったので、定時制の高校に行くことになりました。
経済的な理由で定時制に来ている人が多くいて優秀でした。
いとこが絵を描いていたので、自分でもやろうと思って定時制に行きながら昼間は絵を描いていたりしました。
全国高校生ポスター募集コンクールがあり、愛鳥週間のポスターで佳作に入って自信がつきました。
6か月後に林野庁の募集があり、全国で2位になりました。(応募は4000点ぐらい)
副賞としてスチール製の本箱が届きました。
美術の道に進もうと決心しました。
デザインは落ちてしまって、油絵をやっていたので洋画へ入ることになりました。
デザインに入りたくてその授業に行きましたが、先生から文句を言われてしまいました。
もう一度デザインの基礎から一生懸命勉強し、いい成績で卒業出来ました。
おじさんの会社に入るわけですが、5か月でやめることになりました。
足が悪いのでラッシュアワーの通勤が厳しかった。
諏訪に戻ることにしましたが、デザインの仕事は何もありませんでした。
23,4歳で結婚して、地方の集落を回って展覧会のPRをしたりしていました。
飯田、諏訪の町から仕事が来るようになって食べていけるようになりました。
新聞にクロアチアの素朴画というものがあり、イワン・ラツコビッチという作家が自分の故郷をこよなく愛して、故郷のために描いている画家いるという事が書いてありました。
自分も故郷を描こうかなあと思って、それが発端で仕事の合間に描くようになりました。
最初は伊賀良村を描きました。
40歳で小学館絵画賞を受賞、故郷を描いたもの。
絵とデザインの両輪で生きて行こうと思いました。
2年後に全国紙の日曜版に紙面の半分を使って絵を掲載する仕事が舞い込んできました。
その後全国を歩いてやってほしいといわれ、文章も書いてほしいといわれました。
最初は文章を書くのが大変でした。
ファンレターが来て、その中に80歳のおばあさんから楽しみにしていますという手紙が来て、そのおばあちゃんのために書こうと書き始めたら文章が良くなってきました。
NHKの「明るい農村」もとても参考になりました。
幼児体験もあり、何でもないようなところを描いていました。
毎週の掲載なので当時睡眠時間は3、4時間ぐらいでした。
写真もたくさん撮りました。
今でも空から描き、その上に段々絵を乗っけていきます。(遠い所から描きます。)
人物には目鼻は描きませんでした。
1年で終わるつもりでしたが、2年やることになり、最終的には2年半になりました。
1998年に原田泰司美術館ができました。
日本っていいなあ、日本の四季はいいなあと思っています。
観光地だけではなくちょっとした集落へ寄ってみるとか、自分で旅を発見する時代になってきているのではないかと思います。
自分の故郷を描く絵画コンクールをやっています。
自分の目には伊賀良村というフィルターがあり、それを通しながら見ているかもしれない。
足が悪いためのそのおかげで限定した世界を見つめ、それでヨーロッパの絵を描いても伊賀良村が出てきます。
人間は掘り下げた故郷の見方をしてゆくと結構絵に忠実にでてくると思います。
自分の故郷を描いているのは少ないと思うので、長野県の合併前の故郷(○○村)を描き残したいという事と、子供たちに絵の楽しさを伝えたいし、障害者のためにバリアーフリーの運動も始めました。