2019年7月27日土曜日

倍賞千恵子(女優・歌手)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】

倍賞千恵子(女優・歌手女優・歌手)    ・【舌の記憶~あの時、あの味】
男はつらいよ」でさくらを演じてきた倍賞千恵子さんです。
長きにわたって「男はつらいよ」が愛されてきたのは、山田監督は変化球のピッチャー渥美さんを倍賞さんが名キャッチャーとして確実に受け止めたくれたことも大きいとおしゃっています。
倍賞千恵子さんは東京生まれで、少女時代に過ごした茨城での疎開時代が人生のスタートだといいます。
芸能界へはSKD松竹歌劇団からスタートを切り、1961年に松竹映画「斑女」で映画デビュー、歌手デビューは1962年の「下町の太陽」でした。
「さよならはダンスの後に」、「さくら貝の歌」、など数多くのヒット曲があります。
映画は「男はつらいよ」のほかに「家族」や「遥かなる山の呼び声」など170本を超え、今年も5月の下旬には最新作が公開されています。
「男はつらいよ」に息子満男役の吉岡秀隆さんや夫役の前田吟さんとともに20数年ぶりに参加した思いや、演じるにあたって大切にしてきたこと、どんな食べ物が記憶に残っているのか伺いました。

北海道には冬が好きで行くようになりました。
夏にも行くようになって、素敵な北海道です。
「男はつらいよ」が50本目となり今年の暮れに上映公開されます。
23年ぶりとなります。
最初のころはロケで落ち着かなかった。
セットにはいった時に、上がり框が低めになっていて手すりがあり、壁のところに取っ手がついてあったり、ガラッと変わって年代が経ってそうしたのかなと思いました。
寅さんがいないので、ふっと出てきそうに思ったりしました。
どこかにいるのではないかと思ってしまったりします。
映画の中で1/3を「男はつらいよ」で撮っていた訳です。
あの映画の中で社会とか、世間とか、人との関係そういうものを学んだんじゃないかと思っている作品です。
渥美さんは自分が具合が悪くても、相手の立場をいつも考えている方でした。
ステージに入りにくい役者さんと一緒にスタジオに入るという事をずーっとやってきました。
自分が具合悪くてもやってきたという事は相手の立場、思いやりがなければできないことだと思いますが、それを教えてくれたのが渥美さんなのかなと思います。

私の尊敬する人がさくらかもしれません。
1年に1本映画を撮っていく中で、いつもさくらが私の中にいました。
山田さんの作品にでるようになってから、ただ演じるのではなく、本当にその人になるという事を学んでそういう風にしか演じられないという風になっていったんだと思います。
「遥かなる山の呼び声」の時にも牛小屋の掃除をしたり乳しぼりをしたりやってゆくうちに匂いから身についていきました。

食べ物では疎開先を引き上げて東京に戻ってきたときに、学校での弁当で隣の子がお米屋さんで真っ白なお米の上に真っ黒な海苔が乗っていて、とってもうらやましくていつか私も海苔弁を食べるんだという夢がありました。
海苔がとっても好きになりました。
疎開していたころは前が山だったので、キノコ採っておいでといわれて、キノコを採りに行って晩御飯のおつゆになったりおかずになったりしました。
犬と一緒に行ったときにウサギを咥えてきて、埋めたのを父がもったいないといって掘り起こして食べたこともありました。
麦を噛んでいるとガムになるので、又麦を噛んでいるでしょうといわれたりしました。
母がけんちん汁をよく作ってくれましたが、無駄にしませんでした。
人参、大根など葉っぱは捨てなかったし、皮もそのまま使いました。
使い切ることを両親から教わり、無駄にしないという事を基本にしています。

山田さんは後方で自転車で通過する人にまで指導して、舞台の端端まで山田さんは演出をちゃんとなさっています。
一番大事なのはそこに映って人たちがちゃんと生きていないといけないという事です。
疎開先から歌は歌っていました。
学校放送でも歌わされたりしていました。
それがきっかけで小学生の時に姉と一緒にのど自慢に出て私だけ鐘が鳴って、レコード会社から来ませんかといわれてコード会社に入ることになりました。
冬は乾燥するので声を痛めるので、発声練習は風呂場でやります。
車の中では深呼吸、肺活量の練習などをやったりしています。
歳をとって声質は低くなっています。