2019年7月16日火曜日

石川九楊(書家・評論家)         ・書は芸術なり!

石川九楊(書家・評論家)         ・書は芸術なり!
福井県生まれ74歳、5歳から大人に混じって書道を習い始めました。
大学は子供のころから憧れていた弁護士を目指し、京都大学の法学部に入学しましたが、1か月でその思いが壊れ、大学の書道部で本格的に書道に向かうようになりました。
卒業後は化学会社に入社しましたが、その会社を11年務めて退社、その後は書道を中心に仕事をするようになりました。。
今の石川さんの作品は細かい線で描く幾何学模様のようだったり、四方八方に広がる緻密な線の表現だったりと、読めないといわれることことが多くあります。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開き、青年期の作品から古典や最近の作品等展示して多くの人にインパクトを与えました。
作家としても活躍し100冊を超える書物を書き、「書の終焉」でサントリー学芸賞
「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
来月は名古屋で展覧会を開くことが決まっています。

今、90×65cmに2400字ぐらいの作品を作っています。
相当小さい字になります。
今日で5日目になります。
体調、気持ちが萎えてくるとやめて(1時間半ぐらい書いて)散歩などして、墨をすりなおしてまた1時間半ぐらいしてこれ以上持たないという事になると翌日にやります。
墨は放っておくと少し分離するので新しくその都度すりなおします。
気持ちが油断するとそのまま形になって現れますので気を付けます。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開きましたが、見学者が多く僕も驚きました。
上野の森美術館の広さをうまく利用できました。
壁を作らずに広く見渡せるようにしました。
絵のような作品もあるが、自由に見ていただければいいと思います。
自分でもわからないところがありますので。
未意識に現れてきてしまうという、そこが表現の面白さだと思います。
83mにつないだ作品もありましたが、全部つなげたのは初めてでした。

1985年ぐらいからああいう風な形で書いてゆく段階に入りました。(40歳ごろ)
周りから読めないというように言われるようになりましたが。
書を見るうえで一番の失敗はなんて書いてあるかという風にアプローチする、そこから先が書の問題です。
「山」ならその人の山への理解、アプローチする角度、その人が使う意味とか、そういうものが全部出てきてしまうものだと思います。
作品が物語る、その作品の声を聴けばいいと思います。
例えば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という句があったときに、どういう風に書いたらその言葉と釣り合うようになるか、教わってきた上手に書けましたというようなものだとその言葉が逃げてしまうというか、辱めてしまうというか、それだったら活字でいい、どうやって「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズを書として書けるか、書けないか、自分が一番響いてる言葉をどう書くかという事に腐心して、それを少しずつちょっとずつ何かが見えてくるものがあって、それを積み上げていったら、ついに普通に言えば読めない字になったという事です。

大人に混じって5歳から始めました。
小学校中学年になると賞をもらったりしてそれを励みに書きました。
中学は書道部に入り、先生が僕に大きな影響を与えてくれました。
褒められて書が楽しくなりました。
高校時代は先生とはそりが合わなかった。
展覧会とかに対して価値を持たない先生でした。
数学研究部に入りました。(幾何学が好きでした)
大学は書道部に入りました。
書いていくうえで手ごたえがありました。
10歳ぐらいに鉄道のストライキをやっているところに警察が来て理不尽な行為をみて、権力側とは違う形で役に立とうとおもって弁護士になろうと思っていました。
法律は法律に過ぎない、人間には法律以前の広大なルールがあって、それの方がとてつもなく大きい、それを抜きに法律を解釈することはつまらないと思いました。
いろんな状況があるときにそれを変える力には法律はならない。
司法試験に向けてはもうやめようと思いました。(入学1か月後)
残っていたのは書でしたが、何か世の中に役に立つことはしたいとは思っていました。

1967年に京都の化学会社に就職する。
大学の時に婚約をして食べてゆくために仕事をやる必要がありました。
働きながら書道はやっていました。
学問的に書をやる人と書を表現するところと二つに分かれてやっていました。
定年まで描けるか2,3年悶々としていたが、1978年に辞めました。(会社は11年間務める)
編集の仕事を頼まれるようになりそれが忙しくて、書ができなくなってしまいました。
彼女も会社を辞めて、彼女がギャラリーをやる事になり、買い上げる作品を作るという仕組みになって、それから作品がたくさん生まれるようになりました。
妻の力が偉大だったが、亡くなって半年になります。

「エロイエロイラマサバクタニ」という作品とか「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」、「罪と罰」というところを書いてきました。
「エロイエロイラマサバクタニ」というのは350×240cmぐらいの作品です。
イエスが十字架にかかったときに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(「我が神、我が神
どうして私を思捨てになったのですか」)と叫んだ言葉。
1968年から始まる世界の学生たちが世界を変えようとする運動が1970年ぐらいに収束するが、1970年の展覧会は100人も集まり本当に熱気がはらんで書について議論した。
1972年には一日誰も来ないという日もあり、ある種の空虚感が襲った。
その景色と重ねて「エロイエロイラマサバクタニ」を作った。
書いてゆくときに、こんな風な形になって現れて来るんだと、自分がその出来事のなかに入り込んでいきました。

「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」歴史的なもの、2001年にアメリカ同時多発テロ9・11、お台場原発爆発事件3・11などなども手掛けてきました。
歴史的なものの後に「罪と罰」などを経て評論を作品にしたものとして9・11、3・11へと向かいました。
文筆活動は100冊を越えました。
「書の終焉」でサントリー学芸賞、「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
妻にはいろいろ負担をかけたと思います。