2019年7月23日火曜日

十五代沈壽官(陶芸家陶芸家)       ・薩摩焼400年の伝統とともに生きる

十五代沈壽官(陶芸家陶芸家)       ・薩摩焼400年の伝統とともに生きる
薩摩焼は鹿児島に400年以上前から伝わる焼き物で、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際、薩摩家当主の島津 義弘が朝鮮半島から陶工たちを連れ帰ったことから始まります。
十五代沈壽官さんは本名大迫一輝さん1959年薩摩半島の中西部日置市東市来町美山に
15代続く窯元の家に生まれました。
1999年に沈壽官の名跡を襲名して、今年で20年、来月8月には還暦を迎えます。
先月お父様である14代を亡くされました。
400年の伝統を背負い生きること、先代への思いなどを伺いました。

父はいろんな意味で大きな存在でした。
昭和36年から当時父が34歳だった父が始めた「谷間の子らを救う会」がありました。
子どもの教育が均等に受けられないという事に父は憤りを感じました。
美山小学校ができ、PTAが次々に賛同して最後は鹿児島県庁に座り込みまで行い、2学年合わせて15人という水準の先鞭をつけました。
父はその中心人物でした。
1998年が私たちの先祖が当時の朝鮮から日本にわたってきて400年。
13代からの遺言があって、地震火災から古い作品を守るための美術館をつくる事、400年の節目を盛大に祝ってほしいとのことで父はそれを父は見事にやり遂げました。
それが終わったのが1998年11月30日でした。
その後襲名の話がありました。(父が73歳の時)
1999年1月15日に襲名しましたが、それはその前には他言してはいけないといわれていました。

職人さんたちの給料を間違いなく払って工房を維持してはいけないという事で無我夢中でやってきました。
職人が辞めていったりするので、失われた技術を取り返すこと、若い職人を育てるという事も同時にやっていかなければいけない。
目指してきた方向でキーワードが二つあって、ローカルであるという事と、アナログという事です。
鹿児島の風土がはぐくんできたもの、小さなオーダーにもこたえていかなくてはいけない。
世界の一流品といわれるものはローカルと、アナログという事です。
大学は早稲田の教育学部で地理歴史学でした。
音楽が好きで音楽を一生懸命やっていました。
聞くのが好きでソウルミュージックのサークルを作りました。
父の助言で京都に修行に行きました。
焼き物への適性があるのかなあと決めかねていましたが、15年頑張ってみるように言われました。

その後イタリアの国立美術陶芸科で学びました。
母親から容器を作ってほしいといわれて、考え始めたが、今までのいいとこどりなのではと考え始めたら疑心暗鬼になり作れなくなってしまっていた。
自分をがんじがらめにしているのではないかと思って、逃れるようにイタリアに行きました。
経験知識は生徒15人の中では一番あったと思うが、先生からデザインははじかれてしまい、そういったことが約1年間続きました。
1年ぐらいで日本に帰ろうと思いましたが、ある時に京都の色絵の先生で富本 憲吉先生が「模様から模様は作らず」という言葉がふっと思い浮かんで、何かを見てその人が感じたこと、それを感じたという輪郭のない自分の意志、発想を形にする可視化させたものが模様で、一つの模様は作者のいろいろなインプレッションが込められている。
模様だけをいじくりまわしてももはや模様ではないという事だと思いました。
自分にとっての模様であって、僕の線も色もなくそれで教授ははじいていたのではないかと思いました。
その晩20枚ぐらい書き上げて持っていきましたら、先生はブラボーと言ってくれました。
日本ではいったん職人を機械にしてしまうが全く逆でした。
イタリアには2年いました。

内面的なものを可視化させるのが「表現「」だと思いました。
意志を持つという事は大切だとイタリアで学びました。
韓国にも行きました。
大学院に入って、韓国語を学び、社会を学び陶芸のネットワークを作っていくのが父の思いであったと思いました。
いろんなことがあって日本人とは、民族とは何なんだろうという思いがありました。
日本にいれば朝鮮人といわれるし、向こうへ行けば400年の垢を洗い流せと言われて困ったなあと思いました。
大学に行くことはやめてキムチのかめを作る工場で働くことに決めました。
住み込みで働きましたが仕事はきつかったですが、貴重な経験でした。
司馬遼太郎先生に手紙を書いたことがありました。
民族というのは粗末なものです、文化の共有個体に過ぎず種族ではありません。
面差しは違う、面差しは風土によって作れる、大切なことはトランスする力だというんです。

ネーションといったものをトランスするという事が、今の日本人に一番大切なことなんだと、その場合日本人のアイデンティティーをしっかり持たなければいけない、その上で他国の心が判る日本人にならないといけないと書いてありました。
最後に小生も年少のころから、自らを一個の人類に仕立て上げることをしてきました、と書いてありました。
その手紙を読んだことによって、それがこれからの自分を縛るものではないという事は思いました。
伝承をきちっと守らないと革新は生まれてこないと思います。
400年祭は素晴らしかったです。
一番最初に我が家に伝わっている茶碗に「火ばかり茶碗」というのがあります。
秀吉の朝鮮出兵で多くの陶工たちが日本に連行されてきて、萩焼、有田焼など西の方はほとんどそうですが、土もうわぐすりも陶工も朝鮮だが火ばかりは日本のものだった。
逆に土もうわぐすりも陶工も日本で火だけを持ってこようという企画が持ちあがりました。

火は聖なるものなので、韓国の長老たちが火まで渡すのかという事を言うんです。
これは日本の若者と韓国の若者との未来に向けての話なんだといって了解してもらいました。
400年来の私たちの玉山神社に納めて、今でも灯っています。
同じ火で両方のものを焼こうという事にもなりました。
職人さんに給料を払うことで色々やってきたが、これだけは絶対にというものが見えてくると、そこを掘り下げてみたいと思うようになりました。
大事なのは原料と技術ですね。
薩摩焼の究極のありようを追っかけていきたい。
父に「一人前になるという事はどういうことか」と聞いたら「一人ぼっちになっても寂しがらない男になることだ」といわれました。