2018年3月3日土曜日

井上ウィマラ(高野山大学文学部教授)     ・社会で仏法を生かす

井上ウィマラ(高野山大学文学部教授)     ・社会で仏法を生かす
58歳、かつては僧侶をしていましたが、38歳で還俗してその後僧侶から離れた立場から瞑想を教えています。
最近では終末期医療に携わっている医師や看護師に仏教の瞑想をルーツにする心のトレーニング方法、マインドフルネスの指導もしています。
こうしたウィマラさんの活動は世界中で様々な人達との出会いを繰り返してきたことで生まれました。
あえて僧侶を辞めることで独自の道を歩む井上さんにその人生の軌跡、マインドフルネスとはどういうものか伺いました。

ウィマラと言う名前はビルマの仏教で出家した時にいただいた名前で、マラ=汚れ、ウィ=離れる、汚れから離れる、清浄と云う意味です。
還俗後も使っていますが、ウィマラと言う名前の頃の友達の方が非常に沢山で豊かで自分の事を深くわかって応援してくれる人も多いので、坊さんをやめたときに、ウィマラと言う名前が気に入っているので先生に使っていいかどうか聞いたら、許してくれました。
マインドフルネス、仏教の瞑想ルーツにする心のトレーニング方法がブームに成って来ていて、心理療法の医療でも取り入れられるようになって、病院の看護師さんが聞きに来てくれて、死の看取りに関連する医療関係者の人たちが勉強したいと云うことで呼んでいただいて勉強会をしています。
「念」→今ここで自分が何をしているのかをしっかりと意識している心が「念」という元々の意味です。
英訳ではマインドフルネスと訳されている。
心の向け方のトレーニングだと云うふうに考えてもらえればいいと思います。
坐って目を閉じて呼吸を感じてみましょうと云うのが一番のベーシックですが、日常生活のあらゆる場面でも、今自分の中でなにが起こっているのか、自分と相手の間で今何が起こっているのか、ありのままに観察して行くのがマインドフルネスなので、日常生活のすべてに応用してゆくことが可能で、応用してゆくことが一番理想的だと思います。

小学校に上がるかどうかのころに、凄く寒い冬の朝に、納屋の板の間から朝日が差し込んでくるのを見つめていた時に塵がキラキラ舞っている状況を見ました。
当時夜は田舎なので星空がきれいで天の川が見えていた。
朝日の中で塵が舞っているのを見て、ふと夜の天の川の様子が重なって見えてきた。
指先についている塵と同じ塵が目の前でキラキラ舞っている、天の川が重なって、もしかして目の前でキラキラしている塵の中にも天の川と同じぐらい広い世界があるのではないかとふっとそう思った。
世界を繋ぐ真理というか、パイプのようなものが見つかったら僕は自由に成れるだろうなあと、そう思いました。
高校の倫理社会の本の中に道元の言葉が出てきて、「仏教を学ぶことは自分について学ぶこと、自分について学ぶことは自分を忘れるところまで学ばなければならない、自分を忘れるところまで自分を学べばその時には周りのものがすべて命として自分を照らし出してくれる」と言うのが有りました。
それまで哲学とか、心理学などの本を読んでいたが、自分が知りたい核心をぐるぐる回っているだけで核心にスーと入って来るような文章には出会えなかった。
その言葉を読んだときに、よく判らないがこの人は僕の求めている核心にスーッと入っていける言葉と思って心引かれました。

高校3年の時にオートバイに乗って旅をしている時に永平寺にいきました。
座禅させてほしいと飛び込みましたが駄目でした。
しかし粘って7~10日間座禅させてもらいました。
足が痛かったのは覚えているが大きな体験といったことはなかった。
もう一回高校の生活に戻ろうとは思いました。
京都大学文学部哲学科に合格するが、授業では生きるための知恵を授けてもらうものとは違うと思いました。
中退しました。
25歳の時に出家をします。
周りに合せてキチキチっとやって行くことに対して合わなくて永平寺を飛び出してしまいました。
自分の求めているものとは違うという感じがしました。
北九州の門司にビルマの僧院が有って、そこに行きたいとは思わなかったが、南に行きたいと云う思いが有って旅をして、山の上に仏塔が見えて、友達が話していたところだと思い出して、瞑想を教えてもらいたいと電話をしました。
1週間寝起きをともにして、自由に瞑想するやり方を教えてもらいました。
それまでの禅宗の分刻みの瞑想とは全然違って無重力空間に放り出されたような自由さを体験しました。

枠が欲しいというような不安を感じました。(カルチャーショック)
2週間位経って、ここにいていいのかなあと思うようにもなりました。
1年ぐらいいて、院長先生から正式なお坊さんに成るかと問われて、ビルマに行くことになりました。
ビルマでは1時間座って(呼吸を見つめる)、1時間歩くと(感覚を見つめる)云うことを一日中やりました。
一日の終わりにどうだったかとインタビューがありました。
2週間ぐらいすると暑さにも慣れて深く瞑想するようになりました。
いちばん長く座っていたのは13時間ぐらいの時もありました。
一回坐るとパッと6時間ぐらい過ぎてしまうような状況になってきました。
横に成っても目が覚めっぱなしで3,4日位覚醒が続く状況が有りました。
自分の行動一つ一つを全て1m位後ろからTVカメラで撮影しているような感覚で自分を観察しているような感覚に成りました。
TVカメラで見張られている様な感覚から見守られている様な感覚に変わりました。
温かく包まれている様な感じで緊張は無かった。

芸事でもなんでも一つの道に抜けでてくると、自分自身を離れて見る様なもう一人の自分が観察する、見守ってくれるような温かさを持って観察するもう一つの意識がでてくると云う事がマインドフルネスと言う仏教瞑想の特徴かと思います。
経典の学問の勉強もしました。
ステアリングとブレーキがまだなので、学問の勉強を通して教えてやってほしいと先生から紹介状に書いていただきました。
「マインドフルネスの確立に関する教え」の中で、①自分の呼吸を観察する事、②相手の呼吸を観察すること、③自分の呼吸と相手の呼吸を交互に観察すること、3つのモードがあり、②,③の問題を解決したいと思いました。(経典では①しか教えない)
無意識の世界に触れるような気がしました。
無意識に関しては先生は知らないと答えました。
ここにいるか自分の道を探すか、急にここで決めろと先生から言われました。
ビルマを出ますと即答しました。

日本に戻って、弟がカナダのトロントに移住していて、弟の処を訪ねて行きました。
そこで瞑想を教えたりしていたら、カナダ人の瞑想グループに教えるようになった。
心理療法の方で教えてほしいと言ってきました。
セラピストを紹介してもらい、セラピーに関することを教えてもらいました。
どういうふうに話しているかの息使いは、相手の呼吸を観察に繋がる。
自分が知りたいと思っていた、他人の呼吸を観察することが判ってきました。
①自分の呼吸を観察する事、②相手の呼吸を観察すること、③自分の呼吸と相手の呼吸を交互に観察すること、の3つが心理療法士との交流の中で少しずつ解けて来ました。
瞑想の事を教えるときにも、仏教の大切な概念を教えるときにも、心理療法の言葉、精神分析の言葉を使った方がしっくりする、うまく伝わる場面が増えて行きました。
それで心理療法と仏教瞑想が繋がってきました。

弟の処で赤ちゃんが生まれて、生まれたばかりの赤ちゃんを祝福してほしいと渡してきました。
ビビってしまったが、赤ちゃんを受け取りましたが、その瞬間に「命を掛けて守ってあげよう」と言う思いが湧いてきて、物凄い驚きでした。
人生このままでいいのかなあと言う思いがわいてきて、このままいいお坊さんで終わってしまっては人生半分空っぽのまま(満たされないまま)で終わってしまうような気がしました。
土俵を変えて瞑想の技を修行しなおさないと人生満たされないと思いました。
なんでもありの生活の中で、坊さん時代からの観察する心、思いやる心みたいなものを試してみたいと思いました。
還俗することにしました。
マインドフルネス、自分の頭の中でぐるぐるまわりをして、自作自演の苦しみを作り上げてしまうことがあるが、それをアースする(放電させる)、体の感覚に一回おいて、呼吸に意識を向けることがとても役に立つ。
呼吸のリズムの感覚に心を向ける事で自然に頭の中の過剰電流が放出されて、そのひとにあったなすべきこと、考えるべきことが新しい感じで自然に見え直してくる。
そのための役に立ってくれるものではないかと思います。