中尾知代(岡山大学大学院社会文化科学研究科 准教授)・捕虜たちの言葉に耳傾けて
35年前大学3年生の時に、イギリスに留学した時に初老の男性二人からきつい言葉を投げかけられて強い衝撃を受けるという体験をしました。
この出来事がイギリスでオーラルヒストリーという学問の世界に進むきっかけの一つになりました。
オーラルヒストリーと云うのは庶民の細かな記憶や体験を映像や音声で残すものです。
中尾さんは岡山大学で教べんをとる一方、イギリスの大学などでオーラルヒストリーを続け、ケニアやミャンマーなどで、捕虜や兵士とそこの家族の言葉に耳を傾けてきました。
そのことから戦争や平和と云うものがどのように浮かび上がるのでしょうか。
35年前、ウォリック大学史学科に留学、比較文化的考察の学問と云う事でイギリスに行きました。
子供の頃から、海外の日本イメージに関心が有りました。
イギリスでは日本をどう思っているのだろうと強い関心が有りました。
言葉の勉強を先ずしようとウエールズにいって、食堂で二人の老人が階段を足を引きずりながらのぼって来て、どうしたのか聞いてみたら、「あんた日本からか」と先ず聞かれて、日本のアカンベーの仕草をして、義眼であることが判りました。
「戦争であんたらのお陰で眼を失った」と言われ、もう一人は「足を失ってついでに職も失った」と言われた。
答えようがなかった。
イギリスと戦争をしたがそこまで憎悪、憎しみを向けられるという経験までは予測していなかった。
オーラルヒストリーを知ってから35年経ってしまいましたが、これを理解して日本側との突き合わせをやりたいと思った。
イギリスに90年代から何度も行って、95年にVJ Dayと云う日本に勝ったお祭りがあり大変な盛り上がりです。
捕虜に関する新聞記事がいろいろ出ていたし、83年には「点呼(Tenko)」というTVドラマが有り、物凄い人気で、女性のイギリス人の抑留者が日本軍のもとでいかに苦労するかというものが有りました。
何故そこまで許せないのか聞きたいと思います。
捕虜の人に会えるように市長に紹介状を書いていただき、捕虜の方々に会う機会を得ました。
土地の新聞にもそのことが出ました。
ポール・トンプソン(国際オーラルヒストリー学会を作った人)からビルマ戦線のスリム将軍に手紙を書いていただいて会ってみようと言うことになりました。
毎年8月15日に慰霊祭があるが、そこに私を呼ぼうかとの話が有ったが絶対に呼ばないということでした。
思いを手紙に託して送り待ちました。
2年後ぐらいに会ってみようと言うことになりました。
日本軍がいかに酷い事をしたかと云うTVを観る、ビルマ戦線の軍人による如何に日本軍を許せないかと云う話を聞いて、その後一人ひとりのビルマ戦線の軍人、紹介して下さったご夫妻と、一番許せないと思った理由であったリスボン丸と云う事件で800名死んだ時の生き残りの人と話をすることができました。
りすぼん丸事件は足りない労働力の為に捕虜を日本に連れてきて働かせるが、連れて来る途中でアメリカ軍の爆撃で溺れた。
泳ぎ着いて助かろうとした人を日本人が着き落としたとか、いずれにしろ戦争で閉じ込められていた捕虜たちがハッチを開けるかどうかで、乗っていた軍人は開けるなと云うことで、船長は開けて助けたいと言うことで銃撃戦までになり、捕虜たちは生きようとして必死で、海に飛び込まなければいけないし、泳げない人もいたりして半数が溺死した。
日本人にとっては事故であったかも知れないが、イギリス人にとっては事故ではない、と云うことだった。
話をした3、4日後にはようやくすっきりした顔をしていて、ようやく日本人に伝えられたという達成感があると云った感じで、3,4回その後も会って段々友人になって行った。
一番言われたきついことは、未亡人の方が日本人が一緒にいるだけで厭と云う人でした。
その人とは話ができなかった。
その人の娘さんが私にハローと云っただけで怒ったそうです。
日本軍から受けた厳しいしつけ、暴行などが子供、妻にあたるとか、そういうことが多い。
直接の加害者が日本軍になる訳で、未亡人の方の方が怒りがより強いと云うことは聞かされていました。
BBCの黒人のアナウンサーが「日本人には残酷さの遺伝子があるかどうか」と云うことを先の未亡人から聞かされたと言ってきましたが、その考え方については驚きました。
日本人は親切、丁寧で繊細な文化、美意識を持っている、それがどうして残酷になれるのか、彼女が理解しようとして考えて努力の結果なんだなあと思いました。
戦争に関する考え方が違うと言うこともあるし、多くの方がなぜあそこまでしたのかと、理解したいと言う思いが向こうにもあるんだなと思いました。
理解したいと思ったときに私の側の一つに、ケニア、ミャンマーとかイギリス軍の一部として働かされた人達のことがありました。
アフリカの人自身がどう思っているのか聞きたくて、ケニアに行きました。
日本みたいに強制的に連れて行くのではなくて、運動をさせて優秀な人を連れて行くので、ケニアの人達の軍と戦う事は大変だったという証言もありました。
ケニアは山岳地帯が多いので、ビルマの山岳地帯での戦闘にケニア人は適していたと言われる。
岡山県の元の練兵場だった所にビルマの英霊の記念碑があり、毛利赤柴隊(※毛利末廣、赤柴八重蔵)という人達が建てたというものですが、その裏にどこに行ったかとかが書かれているが、アジアアフリカはぞの後どんどんど独立して行った、いつか岡山の子孫は誇りに思ってくれるに違いないという文章が彫ってある。
アフリカから出ていった人たちはどう思っているのか、日本が解放したと思っているのか、イギリス軍に喜んで仕えたのか、それは彼らにしかわからないので自分の耳で聞いてみたいと思いました。
ケニアに行って、2回目は日本にいるケニアの方から紹介されてその村に行きました。
メルー部族など、親イギリスではないほうだった。(土地を取り上げられたりした)
イギリスからお詫びと補償が行われているが、自分は無理やり連れていかれているので補償さえ貰いたくないと言っています。
訓練で足を悪くしてしまったと言っています。
ビルマ戦線の映像を持っていったが、それを見たときに、イギリスの将校を後ろから撃って殺して埋めたという、それは日本人が殺したことにしたと、非常に強い敵意をもった人が一人印象に残っています。
日本と戦っただけではなくイタリア、ドイツと戦ったとか、戦後イスラエルに駐留させられたとか、いろんな方に会って貴重な記録が残りました。
各国、各民族、各部族それぞれにいい分はあると思うし、それぞれ経験も違うと思う。
付き合わせて戦争の全体像を判って行くと言うことが行われていないと思うので、何とか可能にしたい。
日本でもソ連に抑留されているが、南方で抑留されている人達の記録はほとんど残っていない。
アーロン収容所だけが有名なだけで、他にもあると思う。
集めて突き合わせて行くことが大事だと思っています。
国際的なネットワークを作って行く、まだまだ新しく判ることは戦争に関して、戦前に関しての事などあると思います。
文書とオーラルヒストリー、個人の声など合せて作っていけるようにしたいと思います。
アメリカでは長崎が原爆にあったことは、余り知られていない、70もの都市が空襲にあったこともあまり知られていない。
イギリスではドイツとの闘いの中で空襲はある程度理解されている。
アメリカは真珠湾攻撃以外は本土を攻撃されていないので知らない。
アーカイブ化して付き合わせる責任があると思う。
過去の貴重な話を溜めこんでゆく。
聞き取りをする人たちを集めて相互協力して、やれる人が聞き取りをしに行って記憶の森みたいなものを作れれば、それが私たちの世界を守れる方法ではないかと思います。
戦友会での聞いたときに、戦争だけは駄目と若い人達に伝えてほしいと、みんな不幸になると肩をガクガクゆらせながら言って、私はうなずくだけでした。(インパール作戦に参加した人)
戦争に栄誉、名誉などない、戦争はいかにむなしいか、各国で経験した人の思い。
敵だった人が人間に見え直す瞬間があると言うことに立ち会うことが、オーラルヒストリーに立ち会うことで折々ありますが、人間に見え直す事の貴重さと云うことが、高齢者の方々は敵にあったことがあるので、実は一番可能なんです。
捕虜になったり、戦争を体験した人の、彼らの子供達は憎しみが固まりやすい感じがします。
戦いのリアリティーを本当に伝えておくこと、伝え合っておくことは物凄く大事だと思います。
交換交流して行くことが本当に大事なことだと思います。