なかにし礼(作家・作詞家) ・【謎解き うたことば】なかにし礼(2)
日本語学者 金田一秀穂
作家のつもりでいるが、作詞家時代が長かった。
作家になりたかった。
自由に大変憧れました。
「時には娼婦のように」
吉田拓郎が自分たちの時代はコマーシャリズムに乗った歌ではないものを作ろうと云うことで「旅の宿」など彼らの歌を書き始めました。
それが行き過ぎて、1970年の安保の挫折感から来て、お互いにいたわり合う風潮が満ちて、男も女もいい子で優しい子になってしまって、人間のいいところばかりを見ながら暮らそうと言う、僕は大きな間違いだと思いました。
人間とは幅広くて、先ず人間であることを肯定しようと思って、それを言いたくて「時には娼婦のように」を書いた訳です。
「時には娼婦のように」
時には娼婦のように 淫らな女になりな 真っ赤な口紅付けて 黒い靴下付けて
大きく足を開げて 片眼をつぶってみせな 人差指でてまねき 私を誘っておくれ
バカバカしい人生より バカバカしいひと時が嬉しい ム・・ム・・
時には娼婦のように たっぷり汗を流しな 愛する私のために 悲しむ私のために」
歌を書くというのは現代の人に向かって書くのではなくて、10,20年50年後の人に向かって書いているんだと言うことで、感じる人が歌ってくれればいいというのが僕の鉄則です。
ひんしゅくを買うような歌を時々書かなくてはいけないと思うな。
周りを気にするようならば作家をやめた方がいいと思います。
*「恋のハレルヤ」
ハレルヤ 花が散ってもハレルヤ 風のせいじゃないハレルヤ 沈む夕陽はハレルヤ 止められない愛されたくて (愛されたくて) 愛したんじゃない (愛したんじゃない) もえる想いをあなたにぶっつけた だけなの帰らぬ あなたの夢が今夜も 私を泣かす 愛されたくて (愛されたくて) 愛したんじゃない (愛したんじゃない) もえる想いをあなたにぶっつけた だけなの夜空に 祈りをこめてあなたの名前を呼ぶの
*「人形の家」
顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて とても信じられない 愛が消えたいまもほこりにまみれた人形みたい 愛されて捨てられて忘れられた 部屋のかたすみ 私はあなたに命をあずけた
あれはかりそめの恋 心のたわむれだなんて なぜか思いたくない 胸がいたみすぎて ほこりにまみれた人形みたい 待ちわびて待ちわびて 泣きぬれる部屋のかたすみ 私はあなたに命をあずけた 私はあなたに命をあずけた
このことはあまり言わないできたが、自分なりの検証を考えているうちに、どうやって作詞家になったのかと考えたときにシャンソンの訳詩をやっていて、歌を書く方法論は自然に勉強してしまった。
1曲目は「涙と雨にぬれて」 すぐれた歌でも無くヒットもしなかったが、まあへたくそでした。(24,5歳)
戦争体験に勝る体験はない。
人間のおぞましさ、愚かさを学び、戦争体験で味わった場面を自分の脳裏に焼き付けてあるので、戦争反対の歌にするとかではなくて、そこにある人間の心理と言うものを歌謡曲にどうふうにしてけるいうかと云うものが、ひょっとすると歌を書く大きなきっかけになるかと自分で思いはじめて、二作目が「恋のハレルヤ」なんです。
「恋のハレルヤ」恋の歌ですが、僕の戦争体験した1年数カ月の間でいい事は一度もありませんでした。
日本に帰れるということになって、喜んで、待たされていよいよ船に乗ると言うことで浜辺に歩いて行って、小高い丘から真っ青な海と空が有り、沖にはアメリカの引き揚げ船を見た時にはこんな嬉しいことは無かった。
幸せを始めて感じたのがその瞬間でした、それを歌にしたかった。
国が負けたのは風のせいじゃない・・・、ハレルヤ=日本の国
昭和43年に「人形の家」
満州に住んでいたものは関東軍に捨てられて、避難民になって今度は国から捨てられる。
避難民として帰る当てもない、深い悲しみでありやるせなさもあり、それを歌にしてみようと思って書いたものが「人形の家」になりました。
余ほど辛い恋をしたんじゃないのと云われましたが、黙っていました。
南北戦争から「風とともに去りぬ」が生まれた様に、戦争から作品が生まれないといけないと思いました。
小説家になって一日も早く『赤い月』を書きたかった。
自分が加害者になっていることをきちっと見つめられている。
当時7,8歳だったが、歴史の見方、価値観、自己正当化とかが、歴史の修正主義に繋がっていくが、そういうことはいけないと思って『赤い月』を書きました。
戦争は残酷な世界を作りだしたが、あってはいけないことだと思います。
*「グッバイ・マイ・ラブ」
忘れないわ・・・ 忘れないわ ・・・ もちろんあなたの名前
自分の恋の経験で、残酷だと思う、名前を忘れている。
レコーディングしているときに一番受けたのはここでした。
この歌は僕の好きな歌ベストセブンにはいります。
戦後50年たって旧満州の実家(造り酒屋)の場所に行ったが半分が公園、半分がビルが建っていてカラオケがあり、「グッバイ・マイ・ラブ」を歌っていてこれには絶句しました。
神様も味ないたずらをされると思って感激しました。