小谷孝子(千葉県原爆被爆者の会理事) ・“あっちゃん”と語る被爆体験
79歳、昭和14年広島県呉市の生まれ、6歳で広島市に引っ越しました。
昭和20年8月6日、原爆が投下され、建物の下敷きになった小谷さんはかすり傷で助かりました。
しかし、弟は全身やけどで死に、沢山の人々が苦しみながら死んでゆくむごい光景は長い間話すことはありませんでした。
高校卒業後に上京した小谷さんは幼稚園教諭として働き、子供の為に腹話術を習いました。
その腹話術の人形「あっちゃん」と一緒に8年ほど前から被爆体験を小中学校などで語り始めました。
3年前にはNGOピースボートの船に被爆者たちと乗って、3か月間乗って世界各国で被爆体験の証言もしました。
ピースボートが国際運営団体を努める核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons、略: ICAN)は去年12月、ノーベル平和賞を受賞、小谷さんも受賞を祝うツアーに参加して、ノルウェーに行き、被爆証言を続ける決意を新たにしました。
1015年にピースボートが主催している被爆者が世界に被爆証言をしているツアーが有りそれに参加しました。
それからピースボートで呼ばれると証言に行ってそのつながりが有り、今回被曝者も一緒に行こうと言うことになり参加しました。
被曝者が26人でその中には健康を考えて2世の方も同行して、スタッフが4名加わり30名で行きました。
受章式は感動でした。
被曝者とアイキャンは200名位いました。
サーロー節子さんのスピーチで皆立ちあがって手を繋いで感動を表しました。
「人類と核兵器は共存できない、核兵器は必要悪ではなくて絶対悪だ」と訴えてました。
コンサートもありましたが2万人ぐらい入りました。
広島で被爆ピアノを調律してそれを弾かれて、とてもいい音が出て会場は感動しました。
人間は亡くなって行くがこういう形で世界に伝わって行くことは大切なことです。
司会者が核兵器禁止条約に署名していない国がある、核兵器の傘の下にいる国々が、ノルウェーもそうだとおっしゃって、会場からも大ブーイングが起きました。
世界には沢山の被害者がいて皆さんが立ちあがって核兵器のない世界にしましょうと、世界中が立ちあがっているということが凄く強い力になりました。
これからの日本、世界をになっていく子供たちに、こんなことが有った、今も世界には1万5000発以上の核兵器がある、皆でそれを止めましょう」と、本当の平和は武器ではなく心だと子供たちに伝えていて、それを又誰かに伝えていってほしいと思います。
昭和20年には広島市内で生活していました。
父が海軍でしたが、5歳の時に父が亡くなって呉から広島に引っ越して、4月に国民学校に入学してその8月に原爆が落ちました。
爆心地から2.5kmの処に住んでいました。
とてもいい天気で戦争中とは思えない様な静かさでした。
その日の昼に田舎に疎開することになっていて、兄弟4人で川に泳ぎに行こうとしていました。
B29かなあと云うことで気になったが、大丈夫と云うことになって皆駆け出しました。
私だけは喉が渇いたので、家に引き返しました。
水を飲んでいたときにガラス窓がぴかっと光って物凄い音がして家が壊れて下敷きになってしまいました。
母に助けられてかすり傷で助かりました。
母は兄弟を探しに行ったが、姉は全身やけど、兄はちょっと家の陰にいたのでやけどはしなかったが、爆風で頭や体にガラス破片が刺さって血だらけでした。
広島市内は火の海で人々は家の前を通って行き、私に「水をちょうだい」と云って、まるでお化けの様な様子でした。
ショックで立ちすくんでいました、これが地獄なのかなと思うようでした。
弟はなかなか探せず、ようやく見つかったが、顔は真っ黒で母が顔を拭いたら、顔の皮がずるっと剥けて垂れ下がってしまいました。
体の中まで熱線が届いて臓器まで焼けているわけです。
祖母も全身やけどで戻ってきました。
弟が8月10日の朝、意識がなかったのが目を開けました。
母が水を飲ませると「飛行機は恐ろしいね、お水は美味しいね」と一言残して3歳で亡くなりました。
暑い夏なので傷跡が膿んでウジがわいて火葬場に連れていくこともできず、母は涙も見せず自分で弟を火葬していました。
母は人の居ないところでどんなに泣いていた事だろうかと思います。
8月15日に終戦となり学童疎開で帰ってきましたが、ほとんどの子が両親を亡くしており原爆孤児になってしまいました。
学童疎開は2000人、3000人とも言われますが、人数ははっきりしていません。
簑島に原爆孤児の施設が出来上がって、私たちの世話をしながら母は時間を作って簑島に渡って原爆孤児の世話をしていました。
私はやけどをしていなかったので、いつもかまってもらえなくて、よその子の世話をしないで私のの世話をしてと泣きながら頼んだが、母は「わがままはいいさんな、あなたたちは夜になるとお母ちゃんは帰って来るでしょう。 島にいるあの子たちはもうなんぼ待っても2度と親は帰ってこんのよ」と云いました。
母はどんな大変な時でも自分のことだけではなく、人のことも大切にできる心の豊かな人になるのよと教えてくれました。
6年後に原爆による白血病で母は亡くなりました。(6年生の時)
母が亡くなってからは原爆の話、被爆の話は一切心の中にしまって2度と話をしないという気持ちになりました。
母が亡くなってから先生になろうという夢を持ってからはとにかく明るく生きようと、いつも明るく元気にしていました。
ケロイドがなくあなたは幸せだからそうしてニコニコしていられるのよ、と言われた時にはショックでした。
罪悪感がそこで襲って来ました。
私が原爆を語ってはいけないと思いました。
広島にいるのが嫌で、東京の専門学校に行って保育科をでて、幼稚園の先生になりました。
中学1年の時に友達のお母さんがとっても良くしてくれた幼稚園の先生で、わたしもその夢を持ちました。
3人の子供に恵まれました。
子供も大きくなり腹話術を始めました。
引きこもりの子がいて幼稚園に来ても窓の外ばっかり見ていて、心を開かせたいと思いました。
師匠は野田市朗牧師さんで腹話術を教えていました。
テクニックだけでは本当の笑顔にはならない、心を込めて先ず人格を磨きなさいと言われました。
引きこもりの子は何日目からは席に着くようになりました。
その子が有って今の自分が有るんだなあと思いました。
2003年に私が被曝者であるということを誰かから聞いて、師匠が「あんたは被曝者なんだから風化させないために、この子と一緒に語って行きなさい、辛い話だけどこの子が助けてくれるよ」とおっしゃってくださいました。
仕舞い込んであることだったので語るのは辛くて、姉に相談したら、「あなたは元気だから周りの事をみているんだから、その人たちの無念な思いを語っていきなさい、それがあなたの指名だ」と言われて、罪悪感を使命感に変えて語るようになりました。
最初は写真とか絵を使って話をしていたが、母の事、弟の事を話すと涙が出てきたりして、2010年に県庁に呼ばれてそこで話をすることになり、思い切って「あっちゃん」と一緒に話をしました。
師匠からは最初から「あっちゃん」と話すように言われていたが、できなかった。
「あっちゃん」に聞いてもらえるように話しなさいと言われました。
NGOピースボートの船では世界18カ国23都市を回りました。
広島の友達が何回か乗っていて、行くように勧められて2015年は戦後70年で募集が有り、子供にだったら出来るかなと思って参加しました。
インド、フランス、ノルウェー、パアンマ、ガテマラでは証言をしました。
「原爆を落としたアメリカを恨んではいませんんか?」との質問は必ずあります。
「被曝者は恨みを言いに来たのではない、恨みからは何にも生まれません、2度と同じことをしないでほしい、みなさんで核兵器のない世界にしましょうと呼びかけに来たんですよ」と話しました。
千葉県では1年間で30校ほど「あっちゃん」と一緒に被爆体験を語る活動をしています。
感想文もいただき、1枚1枚読ませてもらいます。
戦争を無くす仕事をしたいとか色々あり、元気をいただきます。
北朝鮮からミサイルを撃って来た時が有り、或る6年生が「どっかの国がやっつけちゃえばいいと思っていましたが、今日話を聞いて武器に対して武器で応戦するのは間違っている、やっぱり話し合いが大事、北朝鮮にも僕たちのような子供がいて子供が犠牲になるんですよね」、と言ってくれたんです。
担任の先生はそれを聞いてぽろぽろ涙を流していました。
家族がいて、朝ご飯を食べ、学校にいってと云うような平凡な普通の幸せがどんなに大切か、世界には不幸な国、人々が一杯いるので、争いは絶対無くして普通の生活を大切にしていってほしいと思います。