五木ひろし(歌手) ・【芸の道 輝きつづけて新春スペシャル】(H30/1/2 OA)
*「夜明けのブルース」(作詞・作曲:レーモンド松屋、編曲:レーモンド松屋・伊平友樹)
ラジオ深夜便で話があり、ブルースっていいなあと思っていたところ、深夜便だと夜明けが思い浮かび、「夜明けのブルース」としてタイトルを考えました。
自分で曲を作ろうと思っていたら、TVを見てレーモンド松屋さんを知って、ディレクターが電話を入れて、「夜明けのブルース」というタイトルで詩を書いてほしいと依頼しました、曲は僕が作ると言うことで。
歌詞に愛媛県の松山が出てきて、僕の本名だし、彼が松山で活躍していたとのことでした。
詩を見ているとメロディーが有るなと思って、曲も作っているでしょうと聞いたら、そうですと言うことで、そのままこれで行こうと言うことになりました。
船村徹先生が亡くなりましたが、審査委員長で10週曲を聞いていただきました。
私の恩師は上原げんと先生で上原げんと先生を尊敬していたのが、船村先生でした。
上原げんと先生の最後の弟子が僕でした。
船村先生も大恩人と思っています。
船村先生の曲も第5週の時に歌いました。
昨年イベントで船村先生の作品を僕なりに選曲して歌いました。
子供のころから聞いていた「別れの一本杉」、「みだれ髪」など含め船村先生の歴史を知っていますし、歌っている歌手の方も判ります。
「男の友情」 作詞家 高野公男さん(若くして亡くなられた)の作品を選んだり、星野哲郎先生、石本 美由起先生、西条八十先生とかと色んな歌手の方々の組み合わせもあります。
色んな方々の代表的作品、代表的な歌手と云うことで選びます。
船村先生は譜面をびじっと書きこんでいく作曲家です、感性で作曲して行く方もいます、僕もそのタイプです。
船村先生は譜面化しないと絶対出てこないようなメロディーを作ったりします。
だから歌う方は難しいですが、一度聴いたら凄く残るんです。
「ひばりの佐渡情話」では「さどの」という3つの言葉だけで何小節も使う作家はいなかったです。
「のぞみ」 先生が亡くなられたときに先生が大切にされていたということを後日知ってもう一度シングルにして入っています。
女囚の歌で、先生が慰問をされていて、刑務所に行って歌ったときに皆さんが泣いたという歌だそうです。
*「のぞみ」 (作詞作曲 船村徹)
ここから出たら 母に会いたい おんなじ部屋で ねむってみたい そしてそして 泣くだけ泣いて ごめんねと おもいきりすがってみたい
ここから出たら 旅に行きたい 坊やをつれて 汽車にのりたい そしてそして 静かな宿で ごめんねと おもいきり抱いてやりたい
ここから出たら 強くなりたい 希望(のぞみ)を持って 耐えて行きたい そしてそして 命のかぎり美しく もう一度生きて行きたい.
山口先生が芸名をどうしようかと云うことで、クラブに文壇の先生がよくきていて、五木寛之先生、生島治郎先生の「五木」、「治郎」で「五木治郎」としようと言う話が有りましたが、「五木四郎」という歌手がいることが判って、五木寛之先生のペンネームで「のぶひろし」というのが有り、それで「五木ひろし」と云うことになりました。
去年の11月に舞台5000回を達成することができました。
歌舞奏、歌う、舞う、奏でる、3つを行う事を僕が提案しました。
ほとんどでずっぱりです。
今は定期的に歌舞奏公演をやっています。
これはらラスベガスでの経験が生きています。
歌舞奏公演をやるにあたって3年間ぐらいは毎日楽器を演奏していました。
ギター、ピアノが弾けたりしたんでベースが有ったので、他の楽器にも向かって行けたのかと思います。
チャレンジするとプラスの拍手が生まれて来ます。
山口先生から継承と挑戦、この二つが今後のテーマだと言われました。
時代劇、歌うこと、これは継承ですがラスベガスは挑戦です。(最初から云われた)
でも段々判ってきたのは継承=チャレンジなんです。
若い頃の声をいまでもやっていこうとすることがチャレンジです。
*「ふりむけば日本海」 (作詞 五木寛之 作曲 五木ひろし)
作曲を僕が先にして五木先生に詩を作っていただきました。
頭の中はいつも考えていますが、家には持ってこないです。(セリフを覚えることなど)
今後70代に入ってどんな楽しいことがあるかと楽しみにしています。
若いころから同じキーで歌ってきましたが、何処までできるか、そこがチャレンジです。
歳を重ねていけばいくほど規則正しい生活、前準備をしていかなければならない。
*「恋歌酒場」 (作詞 阿久悠 作曲 徳久広司) 新曲