光田憲雄(大道芸伝承者) ・庶民が支えた“大道芸”
山口県長門市生まれ、71歳、子供のころに見た大道芸に魅せられました。
20歳過ぎに旅先で大道芸人と出会い、大道芸の指導を受ける様になります。
更に多くの大道芸人の元を尋ね消えかかった大道芸を学びました。
平成7年には大道芸を記録伝承しその復活再生を目的として日本大道芸の会を設立します。
60歳過ぎにサラリーマン生活を切り上げ大道芸の研究、記録をする一方、大道芸物売りの実演会に出演したり、希望者に大道芸の指導もしています。
物売りの為の工夫が芸になったという意味で大道芸です。
江戸時代は200種類はありました。
一番有名なのが「あさり売り」 「行く先の時計となりやこあきんど」
遠くから判るように大きな声でゆっくりと声をあげる。
納豆屋、豆腐屋、(朝食のおかず)
かりん糖売り(子供でも分かるように面白おかしく)
金魚売り(昼間時 テンポがゆっくり 桶をできるだけ揺らさないように)
さざえ売り、アサガオの苗売り(3月、4月)
江戸では「え」を「い」と発音していた。
山口県長門市では当時炭鉱で人がいっぱい生活していました。
子供の頃、家を出ると人だかりが有り、話が面白いものだから一番前で聞いていました。
疑心暗鬼で聞いているが、最後には買わないと損だという気分になり、子供では買えないような値段だったので、大人が羨ましくてしょうがなかった。
値段は現在の価格で大体1000~2000円位でした。
子供のおもちゃは大体100円位でした。
サラリーマンになって東京に来て旅行をして、木曽の民宿に泊まった時に、いつの間にか大道芸の話になって、教えてやろうかと云われて一つ返事で受けました。
広島の人だったので帰省のたびにその人の家に寄り教えてもらいました。
最初、録音を取らせてもらって、一生懸命に暗記しました。
繰り返し練習して身体に覚えさせる以外にないです。
完全にマスターしたら次の芸に進んでいいが、そうでないと中途半端なものになってしまう。
3年経ってスタートラインだと言われる、それを乗り越えて行くと自分のものになる。
サラリーマン生活しながら、色んな師匠の元を探し歩きました。
観たい祭りの時に休暇が取れず、歯がゆい思いをしたこともありました。
60歳過ぎにサラリーマン生活を切り上げ大道芸の研究が自由にできるようになりましたが、生きている人がほとんどいなくて、最後まで付き合ったのが去年に91歳位で亡くなってしまいました。
復活させるには、落語、古文書なども参考にしました。
桂米朝さんなどは大道芸を使ったりしています。
ガマの油売りも東京落語の三代目春風亭柳好 さんが筑波山にしました。
元々は上方落語で伊吹山でした。
最初、茨城県の歴史を調べたがどこにもなかった。
大道芸の歴史。
物売り系と芸能系に大きくわかれています。
物売りでは上方では室町時代、江戸では元禄初期位です。
芸能系は桓武天皇の時代に宮中に雑芸能をやるものが有ったが廃止されて、芸人たちが生活に困って河原などで芸を見せてお金をいただくという形で始まったと言われています。
あらゆる芸能の原点です。
「江戸の大道芸人 庶民社会の共生」と云う本を出版しました。
庶民の記録を発掘させたい。
実際の状況を正したと思っています。
記録、古文書を調べ、時系列にして行きました。
「日本大道芸辞典」がほぼ書き上がっています、500ページぐらいです。
まだ抜け落ちが一杯あると思いますが。
娯楽が少ない時代にお互いが楽しく生きようという感じで、知恵を絞ったので続いてきたと思います。
「大道芸通信」 月に一度出していて350号位になっています。
新しい情報、伝えられている芸、などを次世代に伝えたいという意識が有り練習しています。
入れ替わりもありますが、常時いるのが10人前後で、女性が熱心にやっています。
「深川江戸資料館」で大道芸の実演などもやっています。
1回の公演で200~300人が来ます。
後継者を育てていきたいと思います。
日本風俗史学会の会員としても活動しています。
論文を書かせてくれるので、そこでやっています。
定説とは違うことが結構出て来ます。