2018年3月21日水曜日

五木ひろし(歌手)            ・【芸の道 輝きつづけて新春スペシャル】(H30/1/1 OA)

五木ひろし(歌手)   ・【芸の道 輝きつづけて新春スペシャル】(H30/1/1 OA)
昭和23年3月生まれ、昭和39年にレコード会社主催の全国歌謡コンクールで優勝し、「松山まさる」の名前でプロの道を歩みます。
その後「一条英一」、「三谷謙」と芸名を変える中で昭和45年TVのオーディション番組歌謡選手権で10週連続を勝ちぬいて優勝、翌46年の3月1日に「五木ひろし」に改めて、「よこはま・たそがれ」でレコードデビュー、ヒットチャート1位に上り詰めました。
以後「おまえとふたり」「長良川艶歌」などミリオンヒットを放ち、自身の他多くのアーティストへの楽曲も提供されています。
劇場公演の回数は昨年で5000回を越えて、紅白歌合戦出場も連続47回を数えています。
デビュー54年目の五木さんにこれまでの道のり、芸の道に対しての思いなどを伺います。

3月に70歳になります。
70代はどんな年になって行くんだろうと楽しみです。
*デビュー曲 「よこはま・たそがれ」 (作詞:山口洋子、作曲・編曲:平尾昌晃
デビューしたもののヒット曲に恵まれない時代が数年になりました。
最後の勝負と云うことでオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出て、10週勝ち抜き、ゲスト審査員の山口洋子さん、平尾昌晃さんに出会って二人に見出されて「よこはま・たそがれ」に繋がって行きました。
あの出会いがなければ、この作品が生まれなかったし、いまの私は無かったです、私の人生を変えてくれた運命的な出会いでした。
1週1週が真剣勝負でした。
その後結果的には順調でしたが、売れない時代を何年も経験してくると、又元に戻るのではないかという不安が有りました。
そんな思いはずーっと何年も続きました。
基本的には今も同じです。
データの蓄積、アンテナを張っています。
どういう歌がはやっているのか、いま歌謡曲、演歌はどうなっているのかなどを雑誌で読んだり、どういう作家が油が乗っているのかとか色々見聞きしています。
外国に旅をすると、日本の歌の本質、良さがわかってきます。

昭和51年にラスベガスに行って3年間やりました。
プロダクションの社長がボクシング、キックボクシングもやっていて、キックボクシングを世界的に進出させると言う思いが有り、まず歌手でと云うことで日本を世界のレベルの持っていこうと言うことになって、大変でした。
英語の特訓を数か月かけ1,2時までやりました。
ラスベガスではトップレベルで全てに日本を越えていましたので、そこで得たものは後の自分のステージ、生き方、考え方など物凄く影響を与えてくれました。
厳しい3年間ですが、凄い勉強になった3年間でした。
社長は亡くなってしまいましたが大変感謝しています。
昭和46年紅白に初出場しました。
後でおふくろにTV見ていてくれたか聞いたら見れなかったと言って、出る直前から泣けて泣けてTVが見れなかったということでした。
やっと出れた紅白でしたから、親子ともども大感激でした。
*「おまえとふたり」(作詞:たかたかし、作曲:木村好夫、編曲:京建輔)
それまで演歌は悲しい歌が多かったが、この歌から幸せな歌が生まれるようになりました。
最も売れたのがこの歌でした。

自分としては常に不安で、どうしたらいいかと云うことで、独立をすることになります。
そして「おまえとふたり」が大ヒットしましたが、相当の決断がいりました。
これが第二番目の大勝負だったと思います。
そこから五木ひろしの第二期に入ってくる訳です。
*昭和57年 「契り」(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、編曲:京建輔)
東映映画『大日本帝国』の主題歌 自分で作曲しました。
阿久悠さんの作詞したものを歌ってみたいと思っていましたので、念願がようやくかないました。
作曲に当たって最初の2行に悩みましたが、出来たおかげで一気に進んで行きました。
出来上がったものを映画音楽監督の山本直純先生のところへ持って行って、駄目と言われたら作りなおすようだったが、聞いていただいて良いねと云って下さいました。
メロディーは映画のなかで随分出て来ますが、ラストシーンで歌詞が出て来まして、感動的でした。
最初は平和を願う戦争映画の主題歌、二度目は新しい門出の新郎新婦に対しての歌。
お陰様で長く歌われてきました。

ポリープは前からあったが芝居の時に喉を痛めてしまい、手術をすると3週間休まなくてはいけない。
年を越えて1カ月休みを取り、手術をして復帰後最初の歌が「長良川艶歌」でした。
思いどうりに声が出ました。
特に高音がでて、低音が出にくくなりましたが、低音が出て落ち着くまでに3カ月ぐらいかかりました。
*昭和59年 「長良川艶歌」(作詞:石本美由起、作曲:岡千秋)