星野光世(元戦争孤児の会会員) ・“戦争がうんだ子どもたち”の物語
73年前の3月の東京大空襲で墨田区で蕎麦屋を営んでいた両親を失った星野光代さん(84歳)は、戦争さえなければと言う思いから、自分を含めた11人の戦争孤児たちの体験を絵本にまとめ、去年出版しました。
夫が亡くなるまで自分は浮浪児だったことを言えなかったことを後悔する人など、戦後ずっと記憶を封印してきた人が多く、自分たち親なき子が苦しめられた戦争を、今の子供には知らないままでいられるようにしたい、そんな願いを込めて絵本を作ったと言います。
昭和20年3月10日に東京大空襲。
11歳で小学5年生でした。
学校から集団疎開で千葉県の君津市に行っていました。
その日物凄い燃えカスがお寺の境内に飛んできました。
1週間後ぐらいに一人の男の人が半分焼け焦げた人がお寺に来ましたが、その人は疎開していた子を迎えに来た人でした。
東京は学校も家も焼けて、焼け野原になってしまったということを聞いて、あのときの燃えカスは東京から来たんだと言うことが判りました。
生き残った親がぽつぽつと迎えに来る訳ですが、私のところには来なくて、生徒の半数ぐらい残った時に母方の叔父が迎えに来ました。
突然「お父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃったよ」と言うんです。
でも悲しみも涙も出なくて、そのことを何人も見ているので私の番が来たんだと思いました。
母の実家に行きました。
2カ月ぐらいしてから父の実家(新潟)に私と妹、弟が連れていかれました。
兄と、妹(赤ちゃん)と両親4人が亡くなりました。
新潟では祖母と小さい子供を3人かかえ僅かな農業をやっているところへ3人が転がり込んだから大変でした。
おばあさんには怒られてばっかりいましたが我慢していました。
食べ物もお湯のなかにご飯粒が浮いている位で、箸を使わずご飯を飲むだけでした。
千葉に親しい叔母がいたので或る時、窮状を訴える手紙を出して迎えに来てほしいと連絡しました。
しばらくしたら、私の祖母が怖い顔をして紙を見せにきましたが、それは手紙の下書きでした。(捨てたはずだったが、残っていました)
或る時、知っているおじさんから1晩泊りに来ないかと言われて、3人兄弟が一緒に幾つも山を越えていったら、凄いごちそうが用意されていました。
食べ終わったら、父の妹が今日からここの家の子になるんだと言うんです。
そこには子供が7,8人もいるんです。
ここにいたらもっと苦しくなると思って隙を見て逃げました。
必死で3人で逃げて峠の所で湧水を飲んだとたんに悲しみがこみ上げて来てきました。
その時だけは親の居ない辛さがこみ上げて来て思いきり泣きました。
行くところのないおばあさんのいる父の実家に帰ってきました。
最初怒ったが、逃げてきたと察して優しくなりました。
白いご飯を出してくれましたが、おばあさんが背を向けて泣いていました。
戦争で親が亡くなった子供の気持ちがやっとわかってくれたんだと思います。
叔父が復員したが生活は楽になりませんでした。
私と妹は母の郷里の千葉に、弟は新潟に別れて暮らすことになりました。
10年間別れて暮しました。
弟は実の親だと思っていましたが、東京に就職するために行くのですが、その時に知らされたようです。
周りから反対されたが、苦労覚悟の上で私も東京に出て来ました。
育ててもらった家からお嫁に行ったら、それは嫌だと思いました。
自由に生きたかった。
葛飾に父の一番上の姉が嫁いだ先が建築業をやっていて、そこで働いて結婚しました。
或る日インターネットで戦争孤児の体験の事が出ていて、両親が亡くなったと兄、弟と3人が残されて、親戚にばらばらに預けられて、9歳だったが学校にも行かされて貰えず、山に薪を拾って薪を一晩中燃やして、塩を取る仕事をさせられていた、と言うことでした。
弟が病気だと言うことを知らされ駆け付けたら、馬小屋に寝かされて「かあちゃん、かあちゃん」といって死んでいったんです。
それを見たその人は自分も惨めな死に方をすると思って、十幾日かけて逃げて東京まで歩いてきたそうです。
その間、どうやって雨露を凌いだのか、どうやって食べたのか覚えていないと言うんです。
東京で浮浪児生活をしていたら、トラックに乗せられて(浮浪狩り)、遠い所に捨てられたそうです。
こういったことをぜひ残さないといけないと思いました。
絵と文章で残してこれからの子供たちに伝えたいと思いました。
勝手に書くわけにはいかないので元戦争孤児の会の代表の金田茉莉さんに連絡して、本人に逢いたいといったら、病気で取材を受けられるような状況ではないので書いてもらってもいいという返事をもらいました。
*参照 「戦後70年、戦争孤児が歩んだ苦難の道」(金田茉莉)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html
墨田区の郷土文化資料館で戦争孤児展をやるということで、ここでの体験も書きました。
500部を自分で作って全国の博物館、資料館、記念館などに配らせていただきました。
野田正彰先生が目にとめて下さって、出版社を紹介してもらいました。
2年前が自費出版で、去年が出版社から絵本が出ることになりました。
11人は戦争孤児の人もいましたが、そうでない人もいます。
戦争孤児の悲惨な想像もつかないような暮らしなどが主な内容です。
戦争が色んな問題を起こして、大勢の人を苦しめて来ました。
戦争孤児の資料は少ない。
戦争孤児は訴えるすべも知らない。
これからの子供達が私達と同じ思いをするような時代がきたら大変ですから。
山田清一郎さん、よく生きてきたなと言う凄い体験をしています。
「見えない母に支えられて」という題名
神戸空襲の3月で父を、6月で母が亡くなり一人っ子で行き場がなくて、焼けのこった金庫の中で暮らしたそうです。
親の居ない仲間が何人かいて、貰う、拾う、盗んで食うしか生きられなかった。
今は段々戦争体験者が少なくなりました。
全国に散らばっている戦争孤児にアンケートを送って調査をして、実態を調べました。
全国学童疎開連絡協議会という組織が有り、そこに行けば何でも資料があると言われました。
戦争孤児の会は昨年で辞めることになりました。
高齢化、病気などで来られなくなってきてしまった。
孤児になった辛さ悲しみは、今になった方が悲しみは深いと或る方から言われました。
歳を取ると世の中が見えてくるので、それで感ずるところが違うと思います。
初版が4000部で、2カ月で重版に成りました。
絵も文章も初めてですが、本当にあったことだから残したい。
子供なら読んでくれると思って作ったが、その親御さんも読んでくれました。
戦争孤児の方々は語り部とかでも活動されています。
小学校1、2年生でも「何故戦争を始めたのですか?」という質問を受けたりします。
戦争さえなければ私たちみたいな戦争孤児が生まれないし、戦争ほど愚かなことはないと思います。
今の子供達は戦争を知らないまま育っていって欲しいと思います。