杜けあき(女優) ・被災したふるさとに寄せる思い(インタビュー)
仙台市の出身、昭和54年に宝塚歌劇団に入団し、昭和63年には宝塚では東北出身者として初めてのトップスターになります。
代表作には「ベルサイユのばら」「ヴァレンチノ」、「忠臣蔵」など多くの作品があります。
宝塚を退団したのは平成5年、この年大衆演劇の舞台で優れた業績を示した芸術家に送られる菊田一夫演技賞を受賞されました。
その後、数々の舞台、TVなどに出演、現在はNHKラジオ「ごごラジ」の火曜日パーソナリティーも努めています。
宮城県共同募金会赤い羽根特使や宮城きずな大使を務めて、故郷宮城県、仙台市の魅力をPRしたりチャリティー活動に力を入れたりしています。
生まれたのは古河市で、父が警察官なので転勤が多かったです。
宝塚に行ってみて、遠くから故郷を見て良かったと思いますが、本当に良い所だと思います。
初舞台を踏んだ時に新幹線ができました。
それまでは宝塚から仙台まで11時間かかりました。
故郷の良さ、一番は人の温かさ、ゆったりした時間の過ぎ方、空気が澄んで空が高く緑がきれいで、故郷のありがたみが判りました。
同期生の中では一番私が遠かったので、帰る時間がなくて一人ぽつねんと宿舎にいた時もありました。
両親が手紙を書いてくれて、父も一日おきにくれて、今でも宝物です。
父が芸名を色々考えてくれて、「青葉城恋歌」がちょうどヒットしている時で、歌詞を見ていて杜と言う字は綺麗だと思っていて、民放の番組で「けさのけやき並木は・・・」とか「杜けやき」がいいかなと思いましたが、ちょっと古風な感じがして、もじって「杜けあき」という名前にしました。
名前を付けた当時、宮城県の県木だとは知りませんでした。
後から思ったのですが、こんなケヤキの木のような役者になりたいと思いました。
どっしりとして大地に根を生やした土台を持ち、小枝の先の繊細さ、人の機微や繊細さを表現できる役者になりたいと思いました。
2011年3月11日は東京で公演の為の荷作りをしていました。
阪神淡路大震災の時も辞めてから1年後の時でした。
その時もニュースを見てあり得ないと思いましたが、今回もあり得ないと思いました。
9・11の時にもあり得ないと思いましたが、その時に母が「世の中にあり得ないということはないのよ」とぼそっと言いました。
それをすごく思いました。
なかなか連絡が取れませんでした。(電話、メール)
2カ月後、各地の避難所の慰問に行きました。(それまでは舞台が有り行きたくても行けない状態だった。)
何か癒せることをしたいと思って、手のマッサージをしてあげたいと思ってハンドクリームを大量に買い込んで、避難所に行って手のマッサージをさせてもらいました。
ごつごつした手の人に当たった時に、漁師と言うことでいつまた漁に出られるか分からないと言っていました。
お母さんたちに当たった時はすべすべして綺麗な手だねと言ったら、でも何もすることがない、と言われて、胸が痛かったです。
色んな方の話を聞くことが出来て、100人ぐらいの人の話を聞けたのは私にとっても貴重なことでしたし、心の声を聞いたと思いました。
歌は歌うつもりがなかったがせっかく来たんだから歌ってほしいと言われて、宝塚の「すみれの歌」を「春すみれ咲き・・・」と歌い出しましたが、歌い出したとたんに体育館の空気がファーっと色が変わったんです。
おそらく現実から離れた色だったと思います、その時に私たちの仕事ってこういうことだとはっきり思いました。
歌ってほしいと言われたところでは歌っていいんだと思いました。
気負うことなく人それぞれの出来ることでいいのだと思います。
地元への思いを寄せて居ればおのずとやりたい事、やれることが見えてくるのではないかと思います。
2011年5月に神戸でコンサートをしたときに阪神淡路大震災から15年経っていて、神戸は変わっていて素晴らしいコンサートなどが有りました。
公演が終わってからスタッフがようやくスタートなんだと言っていました。
東北では復興するのは大変なことなんだなと実感しましたが、時間がかかろうが絶対成るんだと、未来を信じることが出来ました。
自然は本当に美しいが厳しいものだと実感しました。
かさ上げとかも見せていただき、放送当日に「大分出来上がって来て、半分ぐらい出来ましたでしょうか」と言ったときに、会場のお母さんが「まだ半分も行ってねー。始まったばっかりだー。」と叫んで、その声をきいて、「これが本当の声なんですよね」と言いました。
東北の魅力、豊かな自然は厳しいと言いましたが、この豊かな自然無くして東北の魅力はないと思います。
海、山、東北の自然の中で暮らしたからこそ、潔さ、耐える力などを見ていて、その力こそが日本の力になるのではないかと思います。
何なんでしょう、この温かさは。