2012年3月2日金曜日

高橋厚(りんごラジオ代表)      ・災害FMりんごラジオ元気に発信中

 高橋厚(りんごラジオ代表69歳)      災害FMりんごラジオ元気に発信中  
大震災後 被災地で災害に関する臨時FM放送局が次々に開局しました 
宮城県りんごラジオ(山元町) 震災から10日後に立ち上げたのが 高橋厚さんは69歳 民間でアナウンサーとして活躍してきた 
これほどの危険を感じた地震は無かった  総合計画審議会の会議をしていた 
机の下に隠れた 本棚が倒れこんできた
しばらくしてから揺れが終わり会議は終了した 
海沿いの家に帰った人は津波の犠牲になってしまった
私は山沿いの方だったので津波の被害には会う事を避けられた   
揺れが凄かったので津波の事がなぜかか頭に浮かばなかった
家に帰って壁に亀裂が入っており食器棚が倒れ、電気はこない、電話は通じない、水道は水が来ない状態だった

一夜あけて、6号線の東側がひどくやられている事が5日後に判明する  
電気が通りTV画見られて情報が入る様になる
情報が無いと云う事は判断できない 
なにをどうしたらいいのか判らなかった 一種の恐怖観を感じた
とりあえず電気の復旧を待ち、5日間あったが 兎に角情報を伝えたいと思った 
山元町では私しかいないだろうと思った(かつて経験した人がほかにいない)
7年前 コミュニティーFMラジオを作りましょうと20名程度で話あっていた 
祭りのイベント、災害時の連絡等有効であると市と掛け合ったがその時には実現しなかった シンポジウムを開いたときに災害時の対応についての事を話したのがその後に役だった  
電話が復旧したら、仙台通信局に電話を入れてに ラジオを開局したい そのためにはどうしたらいいのかを聞きました

条件が整えばすぐに免許は出せますよと、言われ 新潟FM長岡の人に電話をして 兎に角有る機材を用意して持ってゆくからそちらも開局の準備をしてほしいと言われ 機材と総務省はFM長岡の人に頼んで 役場のどこにするか、放送内容をどうするか 体制をどう整えるか 町長にOKを貰う事をした   
10日目に開局ができた  
長岡の人が機材を運んで来てくれて設置して、アンテナも立ててくれた
ゼロからの開局は一番早く出来た  
3/21 午前11時 開局 「山元町の情報をお伝えするために開局しました」と放送する
ロビーの片隅にりんごラジオを開局  死亡連絡のコーナーとなった 
痛ましい雰囲気のなかで放送を続けた 

給水車、自衛隊等の動きの情報も伝えた  町民にも直接インタビューして放送した 
その都度泣いてしまった  放送も中断してしまう事もある
私は昭和42年に仙台の放送局に入社した  当時駅から山が見える風景だった 
ラジオの仕事が多かった 後半はTVの報道関係の仕事が多かった
伝えるは 伝わったにしなければならない どのように伝えるか   
アナウンサーになるために入るが管理者になって寂しさは有った 
仕事をやりやすいように支援してきたと思う
定年退職をして、山元町に来る  
違った人生をすごしたいと思い、畑仕事とか きのこ作り 3600坪を借りている  
8年目で大震災に出会う

りんごラジオは町民が気軽に参加している  
学校の様子 山元町の歴史 町民へのインタビュー  14400人を切ってしまった 
いきなり近寄って行ってインタビューする 町民の繋がり 町の役所との繋がり  
運営とか金の事は2か月一切考えなかったが 4か月は完全ボランティアだったが 今年からは臨時職員とボランティアで 3つにわかれている
あと1年は臨時局としてやるが、その後は町の予算を使ってできるようになる  
町民の為のもので役所のものでないと理解してもらっている
皆が情報を共有できるようにしていければいいと思う
反省として本当に町民の皆さんの言う事を聞けたのか 話すべき事を話せたのか 伝えるべき事を伝えられたのか が有りますね
放送席の前で涙を流した人の話を本当にどこまで判ることができたのか と言う事を今の時期に考えますね
双方向の関係の中で「りんご」が赤くなってゆくんだろうなと思います