東京芸術大学で生田流 宮城道雄の指導を受けている 「春の海」「日蓮」など数々の新しい作曲をして昭和初期の頃 新日本音楽の担い手として注目されていた
矢崎さんはその愛弟子でいらっしゃいます
1957年 モスクワでの世界青年友好祭での日本代表の一人として選ばれ世界民族楽器コンクールで金賞を受賞された
その後現代邦楽として活躍される一方で 「三弦の矢崎」とも言われ重多?(地唄)三味線の名手としても知られています
「六段」300年前に八橋検校が作られたと言われています
琴にはいろいろな弾く手法がある
「合わせ爪」「わり爪」(しゃしゃてんと言って風を表わす時によく使う
「かけ爪」「すくい爪」「刷り爪」(雑音的な音 風を表したリする)「ちらし爪」(これも風を表したりする)「裏連」(花弁が散るときとかこの葉が散る時に表現する)
「ピッチカット」(指で弾く 柔らかい音を出す)「トレモロ」 これらが代表的な弾き方
桐(会津の桐がいいと言われている)
10歳からやっている 昭和2年生まれ 当時はもっと盛んだった
お嫁入り道具として使われていた
父母が邦楽好きだった 姉妹もやっている(東京芸大にみんな行っている 姉、妹は洋楽)
大學に行く時に戦争で音楽をやっている時ではなかったので被服科に入る
3月10日東京大空襲に会う いなかに帰ってくる 切符も手に入らない状況だった
戦後東京芸大に入る 宮城道雄先生の元に入る 神様のような存在だった
受験の前に一度会う事になった 何を弾いたのか記憶にない
とても生徒思いであった 先生は視覚障害で有った
学内演奏の時に演奏している時に金屏風の処で聞いていてくれて、乱れそうになると手を打ってくれて、調子を合わせられるようになって 乱れが無くなる様にしてくれた
奏楽堂はダルマストーブが有るぐらいで寒かったが、手を温めるためにお湯を用意してくれたりしてくれた
「自分で考えて弾きなさい」 と言われた 芸は教わるものではなく、悟るものだと言われた
味のある様に弾きなさい
1956年先生は列車事故で亡くなる 扉をあける方向を間違えたものかと思われる
「泉」を先生が作曲されその曲を教えてもらってから、1週間後の出来事であった
昭和32年 NHK技能者育成会 世界青年平和友好祭で民族楽器のコンクールがあるという事で 4人推薦されてモスクワに行った
金賞を取ることができた 「六段」「落ち葉の踊り」「春の海」とかを演奏した
新潟からソ連の船でナホトカに行き、シベリア鉄道に乗り換えて 何時間か判らないが、中途で時間に間に合わないと言う事で、飛行機に乗り換えて行った
飛行機は20人乗りで大丈夫かと思ったが、何とかたどり着いた
新しい分野に挑戦する 洋楽の人に作曲してもらい 現代邦楽として演奏する
時代の波に乗ったと言うか 徐々に広がって行った
明治から洋楽一辺倒だったので邦楽はずっと横に追いやられていた
邦楽は研究所でよいという意見もあり一時邦楽は廃除されそうになったが担当先生が反対して復活した
歌、三味線もやる様になる 歌、三弦、琴 尺八が順に入ってくる
「八重衣」 25分ぐらいかかる大曲 難曲中の難曲
若い頃は何てそっけないんだろうと思っていたが、ずっと聞いているうちに味が判る様になった
歳を取るほど機微が判る様になって面白くなってきている
弟子からも学ぶことがある 悪い弾き方を弾いているとその様に弾くと駄目なんだなと思う
教え過ぎても駄目だなと思う
海外の反響は→古典に興味を持っている(専門家)
一般の人は新し物に興味を持ってくれるようだ 「春の海」とか
弾き歌いが基本 で三つやらないと駄目(歌、三弦、琴)
古典をしっかりやった上で新しいものをやる
最初から新しいものをやる人がいるが 古典をしっかりやって良い音を出せるようにしてから新しいものに取り組んで貰いたい