武 内 宏 之(石巻日々新聞 報道部長) 震災復興インタビュー 手作り壁新聞はなにを伝えたのか |
石巻市近隣に発行される夕刊の新聞で発行部数1万4000部 創刊100年を、迎える |
大震災時家屋の一階が津波で浸水し 建屋内の輪転機が3台水に浸かったため、新聞を発行 することができなくなりました |
社長以下6人のスタッフがこういう時期でこそしっかりした情報を伝えなければいけないと 苦肉の手作りの壁新聞を作る事になりました |
被災した翌日から6日間壁新聞を作り続け、避難所などに貼りました |
道路は整備されているがまだまだ瓦礫の山、更地があちこちに見受けられる 隣の女川町は壊滅的な状態 |
先ず突き上げられるような経験したことのない揺れがあり、その後に横揺れが来た 建物が破壊されてしまうかと思ったが何とか耐えられた |
高台に有ったが 1階は津波により水が浸水してしまった 結局3台の輪転機が動かすことができない状態であった |
夜の8時に津波がひいて、明日の新聞をどうするかと 話あった お手上げ状態だった |
その時に社長が 私達が新聞を発行している地域がこんな状態になっている その時に私達がなにもしないのは、私達で私達の存在を否定することだと云った |
その言葉で奮い立った 戦時中に一県一紙新聞統制という政策があった うちの新聞社はその対象になり新聞を発行できなくなったが、社員が反発したが |
紙の配給まで断たれてしまう 紙に自分たちの意見やらを書いて近所にくばっていたと云う事がある |
その事をミーッティングの時に話したら、社長がペンと紙さえあればいいんなら私達の仕事はできる んじゃないかと言われた |
すぐさま工場に行ったら、水にぬれていないロール紙があった マジックペンをかき集めた 手書きの新聞を作る事になった 前向きになった |
ああいう災害の時に動けないのは新聞社じゃないと頭に有った 先輩たちのDNAが働いたのではないかと冗談に言っている |
惨状を目の当たりにして、残された者という思いがあった 後から記者魂 ジャーナリズムの原点と言われているが そうかなあと 一人の人間としてこの |
地域の為に何かしなければいけない 私達は伝える事が仕事 |
避難された方は、自分達の家、地域が如何なっているのか知らないだろうと先ずはそれを知らせ なければいけないと、3/12 朝早くから確認取れた情報を |
集めて手書きで第一号を発行しました |
製作の手順→メール着信在り社員の安否が判り 情報取れる所を取って来いと情報を集める 6枚を書く事にする 社長自ら書いた |
それをお手本に5枚書く 避難所に貼りだす(5枚) 一枚は高台のコンビニに貼る |
初日 人盛りになった 5時前には暗くなる 13日からは3時には届くようにした |
家族、自宅がどうなっているのかも心配だった スタッフが淡々と仕事をやっていたが後から、 話がありそれぞれの家族の安否が気になっていたことを話す |
社員2人の安否が判らなかった 4日目で1人確認できた(被害状況を確認していた模様 写真撮影) もう一人は運転中に津波に会い、車から脱出、漁船に拾われ |
ヘリコプターで病院に入院していた 低体温症と 水を飲んでいた 6日目には帰って来てくれた |
先ずは身を守ってこそ報道がある |
気持ちが前向きになるような情報もできるだけ入れるようにして行った (被災者の希望が持てるような情報を入れて行った そうでもしなければあの惨状を乗り切れるか?) |
5月連休明け 読者の声を聞く事ができた 被災当日の夜に反対側の高台から本社が見えて光が見え、日々新聞は何かやってくれるのか と思っていたら |
壁新聞を見る事ができて大変感謝しているとの事であった |
被災者の方々の気持ちがまだ整理されていないのではないか 眼に見えるものは或る意味では復旧復興されてきているが、眼に見えない被災者の心 |
家をなくした、職をなくした たいせつな人をなくした そう言った人達は1年では決して癒されるものではないと思います |
被災者の方々が癒された、気持ちが前向きになれるにはどういう紙面、どういう情報が良いのか 模索をしているところですし 被災者の方々より半歩でも一歩でも |
先を見るようにして情報を模索して地域の方々、被災者の方々に情報を伝達してゆく |
創刊100年目を迎える創業者の言葉 「地域の回覧板たれ」 古いと反発の気持ちはあったが 今回改めてこの言葉が心に刻まれた |
地域に役に立つ情報を伝えてゆきたい |