2012年3月14日水曜日

早乙女勝元(作家79歳)     ・東京大空襲の惨禍を伝え続けて


早乙女勝元(作家79歳)      東京大空襲の惨禍を伝え続けて
早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - )は、日本の作家・児童文学作家。
東京都足立区出身
1945年3月10日 アメリカによる東京大空襲に遭いました (12歳) 
10万人の犠牲者を出した体験を生涯のテーマとして作家としての活動を続けてきました
又東京大空襲・戦災資料センター館長として、被災体験の伝承にも当ってきました 
東京大空襲から作家への道のり 岐路に立っている伝承活動について伺います
今で云う墨田区東向島  当時は寺島町 鉄工所に駆り出されていた 
空襲は連日 B29 3月9日に警戒警報があったが寝ていた

父に怒鳴られて起きた時には10日の昼と思われる程、周りが明るい  
外を観ると回り中が真っ赤 明らかに逃げ遅れた感じだった
リアカーに家具を載せて、父に従い押して行った 
周りも逃げてゆく最中で、火のこが物凄く、火のこをかき分けて行った感じ
物凄い北風の日だった 地上が乱気流状態だった 
逃げている人達が持っている鍋釜 バケツ 手を繋いでいる子供があっという間に風に吹きとばされていくという状況下です  
私達はどちらに逃げていいか判らずにいたのですが、南だ、南だ、と言う声があり 曳舟川を乗り越え、川を観たら、ひのこが山のように映っている

レールを越えて行こうとしたら、バウンドして釜が落ちてしまった 蓋を追いかけた 
その前の人が「落ちてくる」と叫んだ 
収束弾 (焼夷弾が38発集まっていて地上に落ちるとパカッとわれて38発が分散する大形焼夷弾)の一部が私の肩をかすめて電柱にぶすりと突き刺さった
電柱がマッチ棒のように火を吹き始める  
前を行く人が火だるまになって駒の様に廻っている 
父に従ってゆく 枕木も燃える 水を求めて墨田川に行く 5時30分ぐらいの時だった

住んでいた町はもうのっぺらぼうになってしまった 
浅草の松屋デパートだけが残っていたが 火を吹き始めていた
観た光景は一夜にして無くなり、町はのっぺらぼうになってしまい、一瞬にして町が無くなってしまいました
家族は何とか生きのびる事ができた
従来の空襲と違うのが、真夜中にやってきた 300機程の大編隊出来た 超低空出来た 
8000m~10000mで飛んで来ていたのが2000m 目標に対して正確
圧倒的な焼夷弾攻撃 ナパーム性の油脂焼夷弾 M69 わざわざ日本の木造家屋の為にアメリカは最も有効な焼夷弾を開発して、1機当たり6トンぐらい積んできた
総計1700トンが2時間の間に隅田川を中心に降り注いだ 明らかに無差別爆撃
爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた

虚弱体質で内気だった 本を読むのが好きだった 遊んでくれる友達がいなかった 
朝鮮人の友達がいて、廃品回収で持ちこんだ本を読んだ
吉川英治 江戸川乱歩等が好きだった 
戦争が終わったが、学校は火事で無くなり 先生も友達もいつの間にかいなくなってしまって私だけが生き残ったような感じだった
彼らは何にも語るすべがないので、彼等に替わってと言う気持ちが少しあったかな、ものを書こうかなと思ったのは 最初は日記を書いていた
それから感想帖を書いていた 読んだ物の感想を書いていた 昭和25年に朝鮮戦争がある 
アメリカのB29が朝鮮半島に行くようになる

食うや食わずであったが、爆撃の下が気になって、何かできることはないかと考えたのですが、ありません
書く事ができると判って、自分の生い立ちを書く事にした 
原稿用紙300枚を目標に徹底的に書いてみようと思った
或る人に認められて、単行本になって書店に並ぶことができた   当時は大変なこと
ある作家が訪ねて来てくれた 浜本博  君の書いたものはすがすかしかった 面白かった 
頑張りなさいと言われる
それからは怖いもの知らずでじゃんじゃんと書いて、そこから後は恋愛小説を書きたいと思った  次々に映画化された
最初はノンフィクションでスタートしたがフィクションが面白くなり 自分の想像する世界を 自分の好きな女性を対象に自由に作品を書いていった

実は理想の人であった 20代だから書けた作品だった 
段々人間の真実味から離れて行くような感じがしてきた
これでは俗っぽい作品しか書けなくなってしまうのではないかなあと、今度は又ノンフィクションの作品を書こうと考えました
東京大空襲を記録する会を作ることを呼びかける 
組織的の東京大空襲を記録化して後の世に残そうと考えた
東京大空襲災史全5巻を作る  私としては人生の半分の仕事をしたと思った 
一般の人の体験を書ける記録 「東京大空襲」 一カ月で20万部売れて で吃驚した
2002年に東京大空襲を恒久に語り継いでゆく拠点を作りたいと思った  
民間募金で出来ないか 土地を無償提供してくれる人がいた

建物に1億円目標にスタートさせる 倍増して200人収容できる施設を目標にした 
東日本大地震が発生したため昨年は修学旅行の観覧者が例年の半分に落ちてしまった
後の人にバトンタッチしようかなと思っていたが、こんな状態なのでもうひと踏ん張りしないといけないと思っている
打開策 センターの存在をアピールしないといけない 
皆さまの前で披歴したいが、現状は原発問題
3年ちょっと前に音楽研究会にいったが、妻が不幸に遭遇してしまう 
虚血性心不全と監察医から言われる

出先の研究会の席で発作を起こす  病院へ駆けつけた時には霊安所であった
的確に継承できるのには二つある 自分が一番良く知っている事 戦中のただ事で無い貧困 教科書も買ってもらえない体たらく、 その後一夜にして10万人が、亡くなってしまうと言う東京大空襲、を生き残ったので  一番心に深く突き刺さっている事  この両面が重なれば、これは文章が多少拙くても、心を打つものになるのではないかと思う  
人間の真実が描けるのではないか