日活の黄金時代を経験して、その後1971年 映画の衰退に伴いロマンポルノ路線に移行する
飛びつけなくて東宝作品等をやっていた
ポルノになった時に名スタッフは辞めてゆく
ポルノ映画やってゆくとTVも普通の映画も仕事ができなくなると言うような、風評がずっと立ったわけです
映画の仕事を続けてゆくには辞めざるをえないような状況だったので、辞めて行ってTVに名スタッフは流れて行った
私は運よく松竹、東宝の仕事をやらしてもらって、やっていて、現実に日活の撮影所は有るわけです
若い助監督の人達がロマンポルノをやっていた (会社を助けるがために)
これでいいのかなあと思った これも映画なので割り切って行こうと踏ん切りがついた
当時はその映画はアフレコでやっていた 大きな転機ではあった
音楽をロマンポルノに使用するに当たっては、作曲者の了解を得てから使用するため、了解を得るのに苦労した
素人の俳優がやっていたので俳優にも苦労する
偽名を使ってやろうかとの話があったが、偽名を使わずにスタートした
1979年 「赤い髪の女」 アカデミーにノミネートされ録音賞を貰った
1982年以降はフリーとして活躍始める
森田芳光監督 身体が空いている限り、若い監督、有名な監督に係わらず対応した
監督に沿うような形で意見を言ったりする 柔軟に対応する
何十億掛る映画も、1千万の低予算でもそれなりに、柔軟性を持って対応した
海外の映画の時も違和感がなくやっていた
出してくれるものはなんでも食べるし、用がない時にはぐっすり眠っている
どちらかと言うと制約されるのが嫌い
音に対する感性を磨いてきたことはあるのでしょうか?→努力はしない
育った環境は姉がレコードを好きだったので、クラッシックの音楽を聴いたりするのは
好くしていた 活発に運動する方ではなかったので 大衆文学を読んだり 純文学に行って、海外の文学 ロシア、ヨーロッパ等の文学を読んでましたね
大映に勤めるようになってから、生の音楽を聴くようになった
演奏会とか モダンジャズ、ポップス なんでも聞いた
音楽を聞いていないと意見が言えない
映画を見るのだったら、演奏会にいって聞きたい
「聯合艦隊司令長官 山本五十六」で最後にしたい 若い人に頑張ってもらいたいと思っている
人に迷惑をかけたくないので映画の音を支える人達に対してのアドバイスは→百人百色で監督に沿うような 音の処理方法を自分で考える
其れを作って行くのが録音技師だと、映画は監督のものだから、自分にこだわらずに 色んな監督に対応できる
技術、感性を磨いておけば絶対声を掛けてくれると思っている
買い取り作品が多いのでメジャーな会社で作って欲しいと思っている
それが人を育てる意味になる
60何年間 同じ仕事を出来て幸せだと思っている
皆さんに感謝している バックで皆さんが助けてくれたので
過去の事は直ぐ忘れる いまの事を一生懸命やっている
余りいつまでも引きずらないようにしている