(1967年 - )は宮城県気仙沼市出身のスポーツライター、スポーツジャーナリスト
実兄は元TBSアナウンサーの生島ヒロシ
昭和42年生まれ 早稲田大学卒業後は大手広告会社に就職 故郷、気仙沼には帰らなかった 東日本大震災の時には、姉が津波の犠牲者になりました
離れていた故郷と再び向かい合う事になる
コメンテーターとしてスポーツを担当 5年になる
「気仙沼に姉を追って」と言う本を出版する 5月に初めて訪ねる
その時に変わり果てた気仙沼を見る
見晴らしががいい こんなに海が近いのか、こんなに山が近いのかと思った
19歳で東京に出てくる 正月も嫁の実家に行っていた(九州)
去年の2月3日に母が亡くなり、49日を東京でやる事になっていた
震災以降は気仙沼を取材する様になった 豊かだったときの気仙沼を書きたかった
戦後の政治と係わるようなところまで書きすすめた
漁業が栄えていたことに気付いていなかった
出船送りで今日は○○君は休みです と言うようなことがあった
気仙沼の追体験をするような感じで書いた
3/18ぐらいに全ての会社の形態が繋がる様になってこの時点で姉に連絡が付かないようであれば、姉は亡くなったのだろうと区切りをつけたかった
生きてはいないだろうと思うけど、遺体が上がらない、と言うような中途半端な状況がずっと続いていて、おそらく見つからないんじゃないかと思うようになる
9月に葬式をやることに決めた
9月の上旬 ソウルに行っていた時に姉らしき遺体が見つかったと言う連絡が入る
姪とはDNAが一致しているがそれだと確定はできないので、私と兄のDNAを採取するとの連絡が有って 葬儀を出して DNAを採取して2週間後に姉だと確認できて 連絡が来て姉であると確認できて嬉しかった
ようやく自分の手元に戻ってきたように感じでいまだに義理の兄は見つかっていないが、気仙沼出身の人に取って何とか電話でも繋がっていれば、何とかできたのではないかと思う
これは罪の意識と言っていいかも知れないが、自宅にいて姉からの電話があれば公民館に逃げなさいとか指示ができたのではないかとか
自分にとっての治療が古里を歩き、知り、それを一冊にまとめる事によって贖罪を果たそうとしたんじゃないのかなあと思う
姉の死を受け入れるようになるまで髭を剃らなかった記憶がある
気仙沼の男性も髭を剃らなかったようです
そんな暇がなかったと言うことかもしれないが、私の場合は身だしなみとかに気を使う気持ちが無くなっていて、区切りをつけたものの前向きには成れなかった
一つ前向きになったのは プロ野球が前向きになる二次的な要素みたいなものを描いてほしいと言われ、5,6ページの記事を書いて気持ちが楽になった
仕事をすることでしか前向きには成れなのだと解って、それから書きあげるまで突っ走ったような状況だった
本を出した後の読者とのやり取り 物凄く真摯に向き合って読んでくれていると言うのが、判って中には読み進められませんという気仙沼の人がいたりしてます
連帯感 残された人は共有してゆくのが非常に重要で 自分だけじゃないと言う風に思える事が凄く有り難いと言うか、或る意味自己憐憫しなくてもいい方法でもある
気仙沼の歴史と並行して我が家がどのようにして食堂を営むようになったか、祖母の時代から書き始めている
読んでくれた人(84歳、62歳)がまるで私の事を書いてくれているようだと言ってくれた
三陸海岸の街は共通しているように思う
本を読んで自分の歴史として読んでくれる人が多い 著者としては嬉しい
気仙沼の人口は減り続けている 雇用が無くなっている
現状ではあの土地には住めないという状況 インフラは整備されつつあるが数年単位で復興される
これでは住むことに対しては対応できない
やむなく気仙沼を退去するのはやむを得ないよねと言っている
同級生と話した時には自分達の世代では無理だろうと言っていた
あと20年 いまの10代、小学校の子供が残ってくれるようにしないといけないなと言うのが
我々父親世代の感想です 気仙沼まで失いたくないと思った
本を出したことで改めて繋がりができた 早く瓦礫のない風景にしてもらいたい
愛郷心をもってもらいたい