2012年3月13日火曜日

国村隼(俳優)           ・役者としての存在感 2

国村隼(俳優)         役者としての存在感 2  
「ブラックレイン」ハリウッド映画に出演 オーディションに受かる 嬉しかった 1988年11月5日に開始やくざの抗争 マイケル・ダグラス 高倉健 松田優作等と一緒に出演
勝手が違った 規模 全てしシステマイズされている 
控室もキャンピングカーみたいなものがそれぞれある スタッフも沢山いる
カメラも4台常に廻っていてどこから撮っているか役者は判らない 
平均7テークまで行っていた(悪くなくてもやる NG OK関係なくやる)
最後に良いところだけ編集するものと思う(4台カメラ×7テーク)  
慣れると余り苦に成らなくなった

自分のターニングポイントになった (これからは映像の世界でやろうと)  
松田優作から教えてもらったこと→リドリーの撮り方(監督) 
リドリーからお前イメージそれだけしか無いのかと言われている様な感じがすると思ったと言う 1テーク、1テーク 同じシチュエーションなのにも拘わらず、どうやって表現するかと言う事で もう辛いんだけど楽しいんだよ という話とか  
それを聞いたときに あーなるほどね 同じことを繰り返すことでも無いんだと思った  
リドリーから4テーク目に呼ばれ 4テーク撮ったけど全部同じ芝居をしてなかったか
と言われ、当然のことと思い「ハイ」と言ったら 別の君のナチュラルなところでやってみてと言われたそして1テークその様にやった見るとOKサインを出してくれた

松田優作としてはリドリーから7テーク 挑戦状をつけられて様な気がした (7テーク 別のイメージを出せないのかと言われている様な)
日本では同じようにしなくてはいけない  
アメリカではどう巧く編集しているか判らない 
「ガキ帝国」は制作費 1000万円   「ブラックレイン」は60億円だった  
両方とも2時間のエンターテイメント でも両方とも面白い この映像と言うものは面白いと思った
香港でも映画で延べ3年やった  
この仕事の面白い処は色んなところで色んな人と出合っている(御縁を頂く)
映画と舞台の違い まったく違う 
テクニカルな部分でまったく違う 
舞台は1回こっきりのお客さんとのコミュニケーション やってるこっちもどうなるか判らない  
映画と言うのは徹頭徹尾作りもの 舞台は人間がいると思うが 映画の場合は被写体だと割り切った方が良い
舞台はお客さんが観たいところにフォーカスを合わしてみれば良いが、映画の場合はお客さんにこの様に観て下さいよと撮り手が用意してしまう

舞台とはアナログ、ずーっと繋がっている 
映画とはデジタルかもしれない、ある瞬間にぷつぷと切れていてそれでいいと言う
俳優が映画に参加出来るのは役者の素材作りまで、処が舞台は徹頭徹尾お客さんとやり取りできる
長い台詞があるが→心理の流れを捕まえてないと駄目  
逆説的な言い方かもしれないけれど 覚えると忘れる
5ページを覚えるような所を 単に台詞だけじゃなくその時の状況を イメージを変えてゆく流れを腑に落とさないと絶対出てこない
稽古よりは舞台は怖いのですが、幕があいちゃった方が 楽しいと言えば楽しいかもしれない 
お客さんがいてくれた方が 同じ芝居をやっているのですが、本当にお客さんによって変わりますから、お客さんの反応もそうですが、なにかこう同じことを伝えようとしてても、お客さんの意識の塊のエネルギーみたいなものを頂いて、それが稽古場では発想もできなかった様なイメージのところに、ふっと乗っかって行くみたいな ですから稽古場ではでなかったようなものに乗っかちゃうと、それに対してお客さんが別の形の、エネルギーにして返してくれて 毎回お客さんによって違う空気ができるんですよ 
お客さんによって  不思議なもので、漠然としたものですが あの山に登ってみたいなあと思うことはあるが まだ漠然としている  
或る意味我々はメッセンジャーなんだよと松田優作が言ったが、映画が漠然とあっているなあとは思う 常に多くの人に見てもらいたいと思う