笹原政美(医師64歳) 震災地での医療活動
東日本大震災2日後の3月13日から、南三陸町の志津川小体育館で診察を始めた
仮設住宅に住む人たちに取って一番心配なのは、具合が悪くなったときに駆けつける医療機関です
慣れない土地での不安な生活 馴染みの人が一緒に移り住むことで患者さんたちに、少しでも安心感を与えられたらと、被災者への寄り添い医療を決意、昨年12月に南三陸町を離れて、とめ市に新たな診療所を開設しました。
やっぱり掛り付けの医者が一番 、顔を見るだけでもほっとすると云っています。
信頼と言う絆で結ばれた医師と患者 東日本大震災ではからずもその原点に立ち戻ることができたと 語っています
診療所から仮設住宅までは歩いてゆける 位置にある
被災者の人は高年齢の人が多い 60名ぐらいを診療している 2/3が南三陸町の人達
2005年に南三陸町で開院した 津浪警報6mとの情報があり 以前チリ地震があったので その時の高さに合わせて堤防は作っていたんですね
6mであると堤防で防げると思ってた 市の7割が瓦礫となってしまった
妻は仙台に用事があって行っていた 連絡が3日間取れなかった
高台のところまで波が来ておりここも危ないと言う事で志津川小体育館(小学校)に避難した
体育館は最終的には1000人になった
重傷患者を見て自衛隊のヘリコプターで石巻等に送って貰ったりした
高齢者を家族の人が送って又車で家に行くと言う人達が結局犠牲者になってしまった
高齢者の人達が残されて横になっているという状態でした
有る一角を寝たきりの人達とかをそこに設けて寝る場所にしました
薬もなにも無いのでこちらで話を聞いて判断すると 緊急性があるかどうかとの判断をする程度しかできなかったですけれども
医師としては私一人でした 当日は忙しくて眠ることはできませんでした
寒いですから 1週間後に卒業式があり その幕を取り外して寒さ対策にしました
避難所のかなりの人は顔なじみであって患者もほっとしているようであった
1か月ちょっと 薬の無い中 医の原点はなにかを考えさせられた
医療と言うと専門的になりますね それから時代の医療に遅れないように 新しい事を次々にやってゆく それが患者さんに取っていいことだと治してあげることだと 云う具合に思ってますね
今回の震災を経験してちょっと見方を変えようかと 実際あの場に居たら、具体的なことはできないので 医者としての存在は課せられたものとして有るわけですから
原点は人対人の関係なんですね
ですから被災者の立場だとか心理的なもの、置かれている状況 そういうものを考えて行って はたして自分はどのようにして あげられるか
個々によって 違いますから その人その人にあったことを考えてゆく
被災した状況等を聞きながら或る程度時間を掛けて診療した
心が打ち解けて表情を見ると安心したように見えた
夜、頭が痛くて眠れないと言う患者 家が流されたのではと聞くと ちょっと話始める
自分の息子も嫁さんも孫も亡くなってしまったと
3日後に嫁さんの遺体が見つかり確認に行ったところ、3歳の子がいるのだが その3歳の子をぐっと抱えるような格好で歯をぐっと噛みしめている顔であるが腕の中にはその子はいない
息子さんは役場の職員で有ったのですが、息子さんも亡くなっている
たまたま外出していたので私は津浪から逃れる事ができたが、家にいれば嫁さんも孫も無くすことはなかったのではないかと言う思いがある
そういう悔恨の念があるので頭痛がする、眠れないとの事 その話を聞くと看護師も私も診察ができない 言葉が出て来なくて涙が出てくる
そういう例が何例か有りますね 生々しい状況ですね
自分でこらえていたことがちょっと先生に話せたと言う事ですね
次に来る時には症状がちょっと良くなる その次に来た時にはもっと柔らかくなっている
4回目に来た時には一般のはなしもできるような状況になってきている
話しも聞くと言うことは重要ですが、こちらから如何に聞きだしてやるような配慮をしなくてはいけないと言う事が判りますね
或る面で顔見知りであると この人にはこの様なことを話しても大丈夫かなと言う自己判断をしながら話を出してくるんじゃないかと思うんですね
こちらも納得しながら聞いてあげるとどんどん話が発展していって自分で抱えていたものが一気に出て それも越してしまうと あっ聞いてもらえる人がいるんだなと思う
これは決して自分の身近な人には言えないんですね どうしてかと言うと 何でお前だけ助かったのかと言われるかも判らないと思う
矢張り顔が判らないと駄目ですよね 避難所の医療チームを解散するときに ほかの地域に移転する移転先に紹介状を書きますね
渡す時に患者さんは判るわけですよね もしかして先生ともこれが最後かと 私ももしかしてこの患者さんとはこれで最後かなと 言葉に成らなくてもそれは判りますから
そこには患者さんと医者と言うルールは在りますけど人間対人間ですよね
これが私の望んでいた診療なんだと思いますね
南三陸町に居たときには忙しいですから、機械的に診ていたが こちらに来たら多少時間にゆとりがありますから 一人の患者さんとはある程度話をしながら診療できる 私自身も疲れない
患者さんも喜んで帰って貰えるのかなあと思います
医者として初めて活動した時期は一歩でも前へ前へ色んな情報、経験をと思っていたが いつの間にかどっか違った方向に行ってしまった
今回の震災で 原点に戻る 医の原点 医者として志した自分自身の原点だけではなく
人間としての原点 ですよね
同期の人に話すとあっと気付かされたと言ってくれた
医療の原点と言うものは臓器を直すだけではなくて人間全体としてどういう風に診てあげられる医者になっているかどうかという事
生きていると言うそこを如何にサポートをするかに気付かされたと言う事ですね
医療と言うものに対する考え方が変わりましたね
どうしても世間からは命と医療 は医者だと思うんですね
避難先で医療活動をやっている時に医療と言うのは命に取って絶対的なものではない
私達医療関係者が過大評価していたのではないかと思った
医療と言うのは命を守るために有ると思うのですが 人間が生きてゆく中でサポートしているのは医療はごく一部なのですね
医療よりももっと大事なことがあることに気付かされる
訴えられた時にもっと医者の立場から行政に働きかけるべきではないかと気付かされた
生活の安定があれば鬱的にも成らないし まわりとけんかなどもしないし 夜も眠れないと言う事も無くなりますし 血圧も上がりっぱなしと言うような無くなるのでは
血圧が200以上はざらだった そんな状況で避難生活を送らなくては成らなかった
一つは町の復興がどうなるかが心配ですね
もう一つは避難してきている人達が今日これからどうなってゆくのかと言う事
治療をして治すと言う事に加えて 癒すと言う事を如何に我々が提供して上げられるか
言葉だけでは駄目
癒すことをどうしたらいいかを考えているのですが ローテラピーと言う言葉があって 意味をも費やし? そういう医学の道があって専門的な話をちらっと聞いてその人の書いた本を読んだりしながら 如何に言葉だけじゃなくて 本当に心の中に入って行って癒すことができるかどうか
私自身が努力してどういう事を患者さんに提供したらいいか と言う事を永遠のテーマとして与えられていると感じますので一生懸命勉強していこうと思っています
例えばストレスは患者さんは判っていて取り除く方法が判らないで医者に診てもらいに来ているのであるが、医者は精神安定剤を与えたのみで終わっていたのかも
やっぱり心対心で患者さんの心の中に入って行って初めて判ることであって、もしかすると薬って要らないのかも知れないと思っている