飯舘村は原発事故で計画的避難区域に指定され6000人の村民はいまも避難生活を送っています
今避難生活を送っている人達にはまでい着と言う着物が作られ評判になっています
この着物のリフォーム運動を思い付いたのは福島市の松川工業団地の第一仮設住宅で管理人を務める佐野ハツノさん(63歳)です
佐野さんは飯舘村で農業を営む一方 都市の人が農村漁村で余暇を楽しむグリーンツーリズムに共鳴して民宿経営もしていました
また村の農業委員会長を務めた経験も有ります
結婚1970年(昭和45年) 水田 4ヘクタール 黒毛和牛 7頭 繁殖牛 等をしていた
子供は2人いたが結婚
1989年 若妻の翼 20名の募集でヨーロッパに派遣された 自立した女性をつくるのが目的だった
西ドイツ、フランスに行った 民泊 ホームステーした農家の影響がその後に影響された
お客様扱いでなくどうぞというような感じですごく良かった
豊かさの考え方が違った
文化生活をすると云うのが当時目標であったのでいつもお金の事を考え 東京の方に眼が行っていた
お金の亡者みたいであったが、ドイツの人は心が豊かであった
お客様に対する気持ちもそうだが、資源を大切にし、自分たちの生活を大事にする
物資は豊富ではないけれども手作りのものが有ったり 花でしたらドライフラワーを部屋一杯に飾るとか、ガーデンを綺麗に花を咲かせるとか,教会に行く時には普段と違いドレスアップしてゆくとか今まで損をしていたんじゃないかと思った
豊かさとはこういうものなんだとこれが本当の人間の暮らしなんだと
自分達は豊かさを求めていたが求め方が違っていたと気付いた
豊かさとは心の豊かさなんだと気が付いた
40歳 折り返し点にきていて 生きかたを変えてゆかねばならないと思った
実感したのは離れない 挑戦する気持ち
わたしも経営権を持とうと タバコ栽培は自分がやっているのでお金も私のお金にしてもらうようにした
舅にはおこずかいをやったり、夫とは海外旅行をしようと行ったら、これから毎年やろうと言って来た
60アールでやっていたが 煙草を増やす 雇用もする 135アールに増える
経営感覚を持てばいいと思った グリーンツーリズムを知って自分でやるべきだと民宿を始める飯館村では初めてなので回りも注目する ご祝儀をいただきたくない
お茶会をする なにも持たないで来てほしいと言う
暗くなるとお酒が入り おおにぎわいとなる
始めるには皆さんにご迷惑を掛けるかもしれないし、ご協力をお願いするかもしれないと訴えた
初めてくるお客さん 道のりが判らなかったりして聞かれたら案内の言葉を言ってあげて下さいとか 気が付いた事があったら行ってくださいと,よかったら民宿を一緒にやって下さいと言った お客が帰った後こういったものを食べさせろとかいろいろ助言してくれた
どうげ→ 御同敬のいたりの
13町5反 18ヘクタールを息子が経営 牛が5頭 葉煙草 85アールに減反した
息子は4人家族
地震当日 葬儀があり親戚の家に向かっていた 揺れ方からしてただ事ではないと思った
TVを見たらとんでもないことんなったと思った
何とか家に帰って来た 13日までは電気が来なかった
放射能の話があったが飯館村は大丈夫との事であったが,そのうち飯館は危なそうだとの話がある
20日 避難する(私達夫婦を除いて 牛がいるし、犬もいるので)
放射能の件は信じ難かった
農作業の準備等していたら計画的避難区域に指定され、避難しなくてはいけなくなった
親は避難したくないと言う
温泉に行かないかと誘ったが、行くのも3日だと言われてしまう
松川工業団地の第一仮設住宅に入る事になる
89歳、と87歳の両親
全国の皆さんにたんすに眠っている着物を古着で結構なので譲っていただけないでしょうかと言ったら沢山の着物を送っていただく事ができた
その古い着物をもんぺと上半分の上着に作りかえる リフォームする
昔戦争中にリフォームして普段着に、飯舘村ではそれを野良着にして使っていた
リフォームの作業の誘いをしたら25人が集まった
「までい着」と名称を付けてリフォームを進めて 着物を送って下さった人には感謝につきない 布ぞうり等も作った
4月11日 作付はできないのではないかと情報が流れた
18ヘクタールの水田、 牛、民宿 それら一切が原発事故で無くなった
栃木の那須塩原に行くときにはもうこれで家も崩壊だなと 涙が隠せなかった