2012年3月17日土曜日

窪島誠一郎(著作家70歳)      ・二人の父と二人の母と

窪島誠一郎(著作家70歳)         ・二人の父と二人の母と
長野県上田市にある小さな美術館 信濃デッサン館 と無言館を創設し、その館主を務める 信濃デッサン館は村山槐多(かいた)、関根正二松本竣介と言った若くして亡くなった画家たちの作品を展示している  
無言館は戦死した画学生たちが残した作品を展示する戦没画学生慰霊館です
窪島さんの実の父は作家の水上勉さん母は加瀬えきさん そして養父母は東京で靴修理業を営む窪島茂さん、はつさん夫妻でした
窪島さんが実の父母を探して再会したのが、35歳の年でした   
二人の父と二人の母はすでに世を去りました

水上勉は福井県の若狭の出身 沢山原発がある 30数年前の本で絶対安全と信じてはいけないと 過ちは必ず起こるのでと、非常に心配していた
父が亡くなってから8年ですかね  
絵筆を持って描くというものをもう一度描き直すというか、見つめ直すと言う事です
文章を書いている人達はその言葉によって、ペンの力によって、もう一度核を自分達の電気、文明を支えてくれている原発そのものをもう一度見直す
そんな親子共同のメッセージを作りたいなと言う事を思いまして、水上先生もそんな事を話していたこともあるんですよ

北海道の泊原発という現在稼働中なんですけれども、その近く岩内に窪島誠一郎、水上勉連名で 「核を絵筆で塗りつぶせ ペンで書き改めよ  水上勉 窪島誠一郎」という石碑を建てようと思っています 現在計画中  
妻(典子)は岩内に子供の頃暮らしていた 綺麗な海に潜って、アワビなどを獲っていましたけれども、今では遊泳禁止になって、恵みの海では無くなってしまった
「飢餓海峡」 昭和29年洞爺丸が遭難、岩内に大火が起きて それを結びつけた作品 
昭和22年 昭和直後の混乱期の物語 人間の生きる切迫感が表れている
水上は9歳で京都のお寺の小僧に出て、13歳で脱走する 修行がつらかったと
   
水上氏の目の奥に有ったのは、宗教界、仏教界の真理を問うていながら、人間が真理の通りには生きていないと言う事をずーっと幼い目で見てたんですね
それが「がんの寺」という作品に表れている
育ての親の窪島茂さんは水上さんより18歳年上で1923年(22歳) 関東大震災に合い関西にゆく事になる  (九死に一生を得て)
浪曲家の一座に雇われ大工仕事をする 其の時にはつさんと出合う  
靴の修理屋として生計を立てるが、どうも本当の父母ではないと思うようになる

独自に調査を始める 父は浪曲を唸っていたがはつの(日吉川秋水の血を引いている)ほうが圧倒的に巧かったと言っていた
私に浪曲家になる様に父は進めていた(血筋が良いからと 実は血は繋がっていなかったのに) 水上夫婦との間に東中野で生まれて(昭和16年)貧しくて、ある明治大学の学生を通して子供のいない窪島夫婦に預けられた  
昭和19年から1年間石巻に疎開する 石巻の原風景は子供心に覚えている  
帰ってきたら一面の焼け野原だった

「凌」 という名前は 武者小路実篤から名を授かるが 預かり先で名前を変
あっちに女を作りこっちに女を作り大変な放蕩の時代だった
加瀬えきと言う社会主義団体の事務所に勤める聡明な女性と知り合って 転がり込んで同棲する  その後離婚する
私が窪島に手渡されたのも戦争と言う時代が有ったからでしょうね
石巻の瓦礫を見て、戦争での焼け野原とそっくりだった 
なにもかも無くなったんだなあと言う気持ち
大震災の後に自粛するムードがあったが、その時に美術館を開いていて不謹慎じゃないか、いいのかとの思いがあったが、戦時中に非国民と言われた画学生の書いた絵を守ってゆくのが我々の仕事だと思った  
其れを今の時代に伝えてゆくと言う事が我々の仕事であるならば、例えお客さんがゼロ、一人、二人の日があってもこの不謹慎の仕事を続けてゆくべきだと
これが我々の結論だったんです  大震災の数日後に有る婦人が無言館にやってきて がらんとした無言館をご覧になっていて 感想文ノートを書く場所があるんですね
[TVを見て 津波のニュースが流れるたびに 辛い思いをしていました 
何となく逃れたくなって無言館にやってきました 志半ばで戦地に行って亡くなった画学生さん の絵を見て何かこう逆に励まされる様になったんです
  
夢を果たすことなく戦争で亡くなった画学生さんの絵に励まされるなんて、とても不思議な事ですけれど」 という感想文があった  嬉しかった   
どういう風に受け取って貰えるか 判りませんけれども その「不思議さ」に賭けて見たい
3/10から4/15まで入場無料で石巻市で無言館の展示が行われる   
戦争さえなければ、水上親子として普通に生活していたであろう 又画学生も戦争さえなければ普通に絵を描いて過ごしたことであろうと思います
立派な、立派な絵描きさんになった人も居たであろうにと思うんですよ

マイナス面ばっかり考えるんですよ でもマイナスの人間を作ってゆくと言うのかなあ  
だったからこそ私は窪島茂、はつというあんなやさしい両親にも会えたわけ ですから その「逆に画学生さんに励まされました」と言う その夫人の言葉、それが私に活を入れてくれたと思います  
私の仕事も少しは何かの力になるかな という思いがしてきて 彼らが命を賭して作った国ですから この日本と言う国はこんなことでくじけては行かんぞと、かれらの残した絵を通じて、私達は励まされたいですね  
絵が好きだったが、果たせなく 好きな絵描きをせめて展示したいと思い、33年前に信濃デッサン館を作って 分館として隣接地に無言館を作った

最初はきっかけを作ってくれた野見山暁治(ぎょうじ)さんという絵描きさんと無言館は半年続くだろうかと 無名の画学生だから15年経って、おまけに第二展示館までできたし 残念なのは関係者の方々がどんどん亡くなってゆく  
無言館に提示されている作品群が若い人達に語りかけているものは→一口に言えば命 人間が与えられた命というものが どういうものなのか
私達は美味しいものを食べて、旅行に行って楽しい時間を送ると言うのが 命の喜びと言う風に思いがちなのですが、はたして命と言うものはその事だけにあっていいものだろうかと思うわけです  
あの当時 画学生さんたちは極限の状況で、速い人はあす戦地に行きなさい 残された時間をなにをするかですね 彼らは迷わず絵筆を取ったんですね
極身近な世話になった両親 可愛がった妹等を描いて、戦地に立った
命と言うのは、この年になってきざったらしいかもしれないが、何を愛したかで決まるんじゃないんですかね
戦争と言う不条理だけは絶対に有ってはいけない 
この平和な時代であっても 与えられた自分の命と言うものを、何に使いきるか 
若い子たちがボランティアで沢山 大震災で行ってますよね 被災地に行って 救われているのは被災者ではなくて行く場所の切符を求める事の出来た人達
生き先のどこの切符を求めたらいいのか判らない人達が世の中に沢山いるのではないでしょうか 
人の不幸を自分の手立てといっちゃあいけないですけど、ボランティアの人達の目の輝き 一生懸命打ちこむあの姿 
画学生が絵に打ち込む顔、姿がボランティアの皆さんの顔に重なるんですね
生れてはじめて家族の事を考えましたとの感想等を貰った
水上は若狭に群立する15基の原発銀座と呼んでましたけれども、本当にそれをうれいていました  うれいていたその子供、私は高校卒業して、電気つけっぱなし、ネオン看板ぴかぴか どこからその電源がやってくるかなんかを全く考えなかったですね
 
ただただ その光の中で 私の水商売は東京オリンピックの時に金稼ぎをして 何とか今の生活の基盤を作った男なんですけれども
あの頃の自分を振り返ると、無自覚、無智、 もう少し何か考えても良かったのではないか 
水上さんの本を読めば良かった 子供として恥ずかしいですよ
水上は福島の原発事故を知らないで亡くなりましたが、危ないよ 人間が過ちを起こさない事が無いんだからと あの叫んでいた言葉を子供として二人のコーラスにして残したいと今は考えているんですね  

信濃デッサン館(創立33年)は私の好きな絵描きの作品を展示しているのですが 立原道造という画家のコーナーを設けている
堀辰雄 津村信夫 と言った人達との交流した 東京大学の建築家としての側面を持っている 
24歳で結核で他界している  画家で詩人    その作品を預けてくれた  
「夢は何時も帰って行った 山の麓の寂しい村に 水引き草に風が立ち 草雲雀のうたい やまない 静まり返った昼下がりの林道を」

時代と言うものは決して人間だけを生かしているのではなくて、その人間が生み出した、例えば絵であり或は言葉であり音楽であり そういった文化も全て時代抜きには考えられないですよね 
これは自分の作った美術館ですから、自分の意志で作っているのですけれども、私の意志は時代が作っている意志の様な気がしますね   
突き動かしていると言うか