2012年3月7日水曜日

玄侑宗久(作家)         ・福島と私のこの一年2

玄侑宗久(作家)   福島と私のこの一年 2
大震災後 落ちついて本が読めなくなった 「三陸大津波」を4月頃に読めるようになる
方丈記 を薦められて読む  20代に一回読んだことがあるが、余り感じなかったが、今回読んで
周りの状況が違う事もあるのか 心に浸み込んだ 
あらゆる災害が鴨長明がその時代に体験している事と、その時代の政治の混乱が非常に現代と
似ていると言うか そこで鴨長明が思ったことがしっくりきた 
鴨神社の神官の系列なので家柄も良く 当時の教養人の遊びにも熱心で神様への
仕えがおろそかではないかという、
身内の人がいて、思うような仕事に付けなかった  後に出家するわけですね 
蓮胤(れんいん)を名乗った(平安末期)
天災、人災が多くあった 火事が多かった 地震も有った  飢饉が連続して起きている 
そう言ったことに対して天罰の意識が有った

最初の庵が最初に住んでいた屋敷の/10と言われ 晩年の二回目の庵がその1/100と言われている  
最後の庵が5畳なので 最初は5000畳の屋敷であった
天災、人災に見舞われ 落ち込んでゆくうちに見出したのが無常という境地 
「無常」とは→ゆく川の水は絶えずしてなお、元の水に有らず  
見た目は変わらないがそれぞれ構成しているものは変わってゆき、常に入れ替わっている
変化し続けているということなんですが どうしてそういう建物にエネルギーを注ぐのだろうか 
と言う事を長明は書いていますね
どうせ壊れるかも知れない住み家に そういうスタンスでやった方が良いだろうと 
彼はどんどん住み家を狭くしてゆき家財道具も少なくしてゆく 
最後の住み家は組み立て式で可動式だったそうですよ(やどかりみたいなもの)
この様なやり方に自信を持っていたが、待てよと 仏教では執着するなとの教えがあると 
こういう体験を経て絶対こうだと、思い描いている自分の姿と言うものは
やっぱり執着している姿ではないかと非常に深い反省がふっと出てくるんです

そこから彼は世が無常であるだけでなく 自らも無常でなければいけないと つまりこんなに自信を
持っちゃいけないんだと悟るわけです
今回東日本大震災が起こって、盛んに防災マニュアルなんか作っていますが、ちょっと違うわけなんですね
今回と違って今回より大きかったり、違っていると全く通用しないわけじゃないですか 
そういうものをマニュアル化したり マニュフェストに掲げたりするのは
揺らがない信念で提示するやり方そのものは執着だろうと 言う風に思ってしまったわけですよね
揺らいでいいんだと 新たな重心を求めて繰り返していいんだと思うようになった 
「方丈 」と言う言葉は 唯摩教 から来ていて ゆいま という在家信者がいた 
そこが無限の広がりがある 狭いはずなのに 執着が無くなれば無限の広さを持つ  
当初から方丈記を書き始めた時から執着をなくすことを掲げているわけです

無常  仏教ならではの考え方で 所業無常 処方無我 涅槃寂静 あらゆるものは移り変わり
変化している(所業無常) 
そこに他者が係わっているので単独でどうだと言う事はあり得ない(処方無我) 
その事によく気付いて 縁によって起こって来るものに対して いたずらな心の動きを無くしてゆくと涅槃寂静という安らかな境地がえられますよとの教え
インドから中国を渡って日本に来たがこの「無常」という考え方を日本ほど発展させた国は無いですね
「もののあわれ」「なつかしむ」 夏樫   
長明は琵琶の名手 琴も弾く  詩歌を作ったりした  出世を完全に諦めていたが世間のことは
良く知っていた
「ゆく川の水は絶えずして・・・」とは→福岡伸一先生(分子生物学者) [動的平衡]と言う言葉を
おっしゃってますがそれに近い 所謂自転車操業
変わらずに見えていると言う事は常に変わり続けている事  それこそが生きる営み

「知足」  老子からの出典   宗教、特に禅宗では、人間の欲を戒めるために、よくこの言葉を引用
人間は、満足するということを知らず、充分な金や物を得ても、さらに欲張って、『より多く、もっと
欲しい』と
自分に快楽をもたらすものを際限なく追い求めるようです
なぜ人間は満足することができないのでしょうか。
それは、人間が生の本質を理解していないからです
生を維持するのに必要なものだけで満足して 自分の中には全て備わっていると言う事を信じる事
 現代では暮らしそのものにつながってくる
衣類でも安いからと言ってどんどん外国に行ってしまって日本で作る人がいなくなってしまう  
元々経済環境違う中、値段と言うものは戦い様がない訳ですから 
どこまでも開いていってしまい戦うと言う事は無益な気がするんですね
有る程度閉じて守らないと守れないですよね   或る意味グローバリズムの対極と言える

「無事」 外に求めないと言う意味では知足と重なってくる あれこれ探さない 自足してゆく   
青い鳥は自分の家に有る
「ものうしとても心動かすことなし」 →「ものうし」やる気にならない そんな時もあるさ    
人は苦しみをどんどん増殖してしまう存在ですから(頭が)  
色んな自然現象があるわけですけれども、そういう状況なんだなと受け止める 
しばらくしていると状況が変わってくる 
そこで深刻に思いつめない事を進めている(まさに今の東北地方の状況)   
心の持ち方で状況は変わる
「三界(さんがい)はただ心一つなり」  どういう思いこみをしておくのか いずれにせよ思いこむ
存在ですから思いこみなしにすると云うのは難しい訳ですけれども 
ならばどういう風に思いこんでおくかと言うのが非常に大きな問題ですよね
心一つで三界(さんがい)の住み心地は変わるわけですよね

「揺らぐ」 首都圏大地震が起きるかもしれない 色んな想定外の事を考えないといけない   
捉われないで自然体でいるほうがいい
下手な準備をしない方が良い 過信してしまう恐れがある  自然には絶対勝てない
小さな自治  色んな人の関係が判る   
復興構想会議 一回しかやってない 省庁が複数にまたがり 縦割りのかべを中々破れないし 
動きが鈍い
平時のやり方は或る程度しっかりしたマニュアルがあってしっかりした対応をしてくれるが、
有事の際は違う 別の指揮系統が平安時代でも有った
有事なのに平時のシステムが邪魔になっていると言うんですかね 
復興庁も他の省庁と横並びでしょ  横並びでは指揮出来ないですよ
見ていて速やかであるとは言えない