レシャード・カレッド(アフガニスタン出身・医師) ・医師に国境はない(27.2.24放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/02/blog-post_24.htmlをご覧ください。
2015年4月30日木曜日
2015年4月29日水曜日
富司純子(女優) ・女優生活50年と”かっこいい”おばあちゃんを演じて
富司純子(女優) ・女優生活50年と”かっこいい”おばあちゃんを演じて
富司純子さんは総合TV「紅雲町珈琲屋こよみ」に主演する。
吉永南央さんの小説で 主人公 杉浦草を演じる。
身の周りで起きる小さな事件を解決してゆく。
紅雲町で和食器とコーヒー豆の販売を営む小蔵屋。 杉浦草(76歳) 通称 お草さん
お草さんは店を訪れるお客の中で、ふっと抱いた疑問から地方都市の日常に潜む小さな問題を解決していきます。
お草さん自身も決して無傷ではない過去を抱えていて忍びよる老いの影のもとで前向きに生き続けます。
小説を読んで面白くて、なんて魅力的な女性だと、一遍に虜になりました。
脚本は相沢友子さん
お草さんは65歳で人生の再出発に踏み来る。
古民家を移築して、反対をされる中で、新しい和食器とコーヒー豆の販売を営む店を始める。
信念を通すところは似ているかもしれない。
ゴミ拾いをしながら、お地蔵さんに毎日お供え物したり、お祈りしたりしている。
自分は離婚して子供を置いて来ざるを得なかった状況の中で、3歳の男の子が疏水みたいなところに入って死んでしまう。
人生の中の大きな傷を胸にしょっているので、お地蔵さんにいつもわびている。
ドラマの中で好きなセリフ 金継ぎ 壊れたものを繋ぎ合せて、新しいカップに仕立てるが、重い過去をもった相手役の橋爪功さんが「傷をもった人間だからこそ出来ることが有る」という暗示をかける言葉。
セットも素晴らしい、山内さんが素晴らしいセンスの方で、一歩入っただけでお草さんになれた。
高倉健さんがコーヒーが好きで、最初は飲めなかったが勧められるうちに好きになって今では癖になってコーヒーが無くてはいけなくなってしまった。主人も好きです。
和歌山県で昭和20年生まれ、貧しくて、コッペパン、さつまいも、キャルメラ等を食べて育ちました。
リヤカーで新鮮な小鰯等新しい魚を売ってきたりしていた。
サバなどもおいしくて、光物は大好きです。
父は火宅の人で、京都で別宅で女性と住み子供までいたので、母は洋裁を教えたりしてその収入で私たちを育ててきました。
大坂に来てからも同様な生活でした。
母の苦労を見ていて、早く働いて母に楽をさせたいという気持ちが有った。
縁あって牧野監督に女優にと言われた時は直ぐに女優になりたいと言いました。
当時父は牧野監督の下で働いていた。
17歳でデビューしその後5年間で次々に撮影が有り、1年に13本ぐらい出た時もあった。
任侠物に入ってゆく。(相手役 高倉健、鶴田浩二、菅原文太、若山富三郎等)
昭和43年初めての主演映画 緋牡丹博徒が大ヒット (22歳) 58本目
緋牡丹博徒シリーズは全部で8本
自分は文芸作にあこがれていて、山本周五郎の「五弁の椿」「柳橋物語」等を他局のTVで撮らして貰っていた。
そういうのを映画で本当はやってほしかったが、任侠もので、自分の思う役柄でない役をやっていたので、そんな中で自分の女を秘めて演じる中の、男と女のドラマを深くつくってもらうように本をチェックして本直しして、出来る限り自分の欲求を入れて作ってきました。
三島由紀夫さん、楠本憲吉さん等にも見て頂いて応援してくださいました。
それが支えになっていました。
昭和47年に結婚。
大河ドラマ「義経」が終わる頃に主人と付き合い始めた。
3年後主人が父に結婚を申し込んだが、緋牡丹が好評だったので3年待つ様に父から言われ、その間 緋牡丹を撮っていたが、それからもう1年待つ様に父から言われる。
結局7年待ってくれた。
その間、4年間で悔いのない仕事をしようと、自分なりにきちっと計画を立てて、婚約発表の時に引退しますと言って、二度と映画には戻る気はないと、主人の黒子として、支えていきたいと思った。
歌舞伎の人は基礎が違うと思った。(立ち居振る舞い、セリフ、刀の差し方等が綺麗)
凄い役者になるのではないかと思った、この人にかけてみたという気になったと思います。
日々の体調管理、朝からきちっと野菜の入ったジュースを作ってそれを飲んでもらう。
バランスの良い食べものを心掛けている、(1日2食)
結婚後毎月他の人を含め歌舞伎を見て、梅幸、中村歌右衛門、中村雀右衛門等、綺羅星のごとく女形の人がいて、所作、踊り、お芝居を見せて頂いたのが 物凄く私の財産になりました。
歌舞伎は本当に素晴らしいと思います。
お子さんが寺島しのぶさん、尾上菊之助さんですが、子育ては?
楽しかったです。 母他皆が一緒に子育てをしてくれたので助かりました。
孫がいるが芝居が好きで楽しみです。
平成1年ごろ 子供も親離れしたかったと思う。
子供から私が子離れしていないと言われた。
これから何をしようと思っていたら、NHKから「詩城の旅人」(松本清張)、同時に「あ・うん」 の映画からの仕事の依頼が有った。
「富司純子」の名前で仕事をすることにした。
「あ・うん」が一番大好きです。
17年ぶりの仕事だったが、昨日別れてから、今日会ったみたいにブランクをまったく感じなかった。
引き受けた役の世界に入り込めるのは、自分のその時だけは何のしがらみもない、例えば「お草さん」の中で生きてドラマを皆で力を合わせて作ってゆく時間、その時間は全て私のものなんです。
全てそこで楽しく出来、出来上がった作品が良かったねと言っていただけたら、とっても幸せです。
「紅雲町珈琲屋こよみ」の魅力は?
お草さんの生きざまがかっこいいんですね。
生き生きとして自分の好きなことをやって生きている。
富司純子さんは総合TV「紅雲町珈琲屋こよみ」に主演する。
吉永南央さんの小説で 主人公 杉浦草を演じる。
身の周りで起きる小さな事件を解決してゆく。
紅雲町で和食器とコーヒー豆の販売を営む小蔵屋。 杉浦草(76歳) 通称 お草さん
お草さんは店を訪れるお客の中で、ふっと抱いた疑問から地方都市の日常に潜む小さな問題を解決していきます。
お草さん自身も決して無傷ではない過去を抱えていて忍びよる老いの影のもとで前向きに生き続けます。
小説を読んで面白くて、なんて魅力的な女性だと、一遍に虜になりました。
脚本は相沢友子さん
お草さんは65歳で人生の再出発に踏み来る。
古民家を移築して、反対をされる中で、新しい和食器とコーヒー豆の販売を営む店を始める。
信念を通すところは似ているかもしれない。
ゴミ拾いをしながら、お地蔵さんに毎日お供え物したり、お祈りしたりしている。
自分は離婚して子供を置いて来ざるを得なかった状況の中で、3歳の男の子が疏水みたいなところに入って死んでしまう。
人生の中の大きな傷を胸にしょっているので、お地蔵さんにいつもわびている。
ドラマの中で好きなセリフ 金継ぎ 壊れたものを繋ぎ合せて、新しいカップに仕立てるが、重い過去をもった相手役の橋爪功さんが「傷をもった人間だからこそ出来ることが有る」という暗示をかける言葉。
セットも素晴らしい、山内さんが素晴らしいセンスの方で、一歩入っただけでお草さんになれた。
高倉健さんがコーヒーが好きで、最初は飲めなかったが勧められるうちに好きになって今では癖になってコーヒーが無くてはいけなくなってしまった。主人も好きです。
和歌山県で昭和20年生まれ、貧しくて、コッペパン、さつまいも、キャルメラ等を食べて育ちました。
リヤカーで新鮮な小鰯等新しい魚を売ってきたりしていた。
サバなどもおいしくて、光物は大好きです。
父は火宅の人で、京都で別宅で女性と住み子供までいたので、母は洋裁を教えたりしてその収入で私たちを育ててきました。
大坂に来てからも同様な生活でした。
母の苦労を見ていて、早く働いて母に楽をさせたいという気持ちが有った。
縁あって牧野監督に女優にと言われた時は直ぐに女優になりたいと言いました。
当時父は牧野監督の下で働いていた。
17歳でデビューしその後5年間で次々に撮影が有り、1年に13本ぐらい出た時もあった。
任侠物に入ってゆく。(相手役 高倉健、鶴田浩二、菅原文太、若山富三郎等)
昭和43年初めての主演映画 緋牡丹博徒が大ヒット (22歳) 58本目
緋牡丹博徒シリーズは全部で8本
自分は文芸作にあこがれていて、山本周五郎の「五弁の椿」「柳橋物語」等を他局のTVで撮らして貰っていた。
そういうのを映画で本当はやってほしかったが、任侠もので、自分の思う役柄でない役をやっていたので、そんな中で自分の女を秘めて演じる中の、男と女のドラマを深くつくってもらうように本をチェックして本直しして、出来る限り自分の欲求を入れて作ってきました。
三島由紀夫さん、楠本憲吉さん等にも見て頂いて応援してくださいました。
それが支えになっていました。
昭和47年に結婚。
大河ドラマ「義経」が終わる頃に主人と付き合い始めた。
3年後主人が父に結婚を申し込んだが、緋牡丹が好評だったので3年待つ様に父から言われ、その間 緋牡丹を撮っていたが、それからもう1年待つ様に父から言われる。
結局7年待ってくれた。
その間、4年間で悔いのない仕事をしようと、自分なりにきちっと計画を立てて、婚約発表の時に引退しますと言って、二度と映画には戻る気はないと、主人の黒子として、支えていきたいと思った。
歌舞伎の人は基礎が違うと思った。(立ち居振る舞い、セリフ、刀の差し方等が綺麗)
凄い役者になるのではないかと思った、この人にかけてみたという気になったと思います。
日々の体調管理、朝からきちっと野菜の入ったジュースを作ってそれを飲んでもらう。
バランスの良い食べものを心掛けている、(1日2食)
結婚後毎月他の人を含め歌舞伎を見て、梅幸、中村歌右衛門、中村雀右衛門等、綺羅星のごとく女形の人がいて、所作、踊り、お芝居を見せて頂いたのが 物凄く私の財産になりました。
歌舞伎は本当に素晴らしいと思います。
お子さんが寺島しのぶさん、尾上菊之助さんですが、子育ては?
楽しかったです。 母他皆が一緒に子育てをしてくれたので助かりました。
孫がいるが芝居が好きで楽しみです。
平成1年ごろ 子供も親離れしたかったと思う。
子供から私が子離れしていないと言われた。
これから何をしようと思っていたら、NHKから「詩城の旅人」(松本清張)、同時に「あ・うん」 の映画からの仕事の依頼が有った。
「富司純子」の名前で仕事をすることにした。
「あ・うん」が一番大好きです。
17年ぶりの仕事だったが、昨日別れてから、今日会ったみたいにブランクをまったく感じなかった。
引き受けた役の世界に入り込めるのは、自分のその時だけは何のしがらみもない、例えば「お草さん」の中で生きてドラマを皆で力を合わせて作ってゆく時間、その時間は全て私のものなんです。
全てそこで楽しく出来、出来上がった作品が良かったねと言っていただけたら、とっても幸せです。
「紅雲町珈琲屋こよみ」の魅力は?
お草さんの生きざまがかっこいいんですね。
生き生きとして自分の好きなことをやって生きている。
2015年4月26日日曜日
三田 完(作家) ・ディレクターから作家になって
三田 完(作家) ・ディレクターから作家になって
埼玉県出身59歳 先ごろ小沢昭一さんの人生を纏めた「明日のこころだ」を出版しました。
小沢さんと言うと、俳優、放浪芸の研究者、エッセーイスト、「小沢昭一の小沢昭一的心」のパーソナリティーとしても活躍。
三田さんは慶応大学卒業後、昭和53年にNHKに就職、ディレクターとして新潟局を振り出しに、仕事を始め、4年後東京の歌番組を制作するセクションに転勤しました。
平成4年にNHKを退職、民放等でTV番組を制作、執筆活動を始めます。
平成12年にロシア人の幇間 太鼓持ちを描いた「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞し、作家デビュー、平成19年には昭和初期を舞台に俳句の会で出会った3人娘の友情や恋愛を描いた「俳風三麗花」が137回の直木賞の候補にもなりました。
翌年にはNHKの中西龍アナウンサーの人生をまとめた「当マイクロフォン」を出版しています。
又「知水」という俳号では俳句の世界でも活躍しています。
「あしたのこころだ」 著書出版
とっても胸の中に小沢さんにまつわる声の思い出、話の内容、ハーモニカの音色が残っているんだなと改めて思いました。
小沢さんは昭和4年生まれ、平成24年に83歳で亡くなっている。
小沢さんは「変哲」という俳号をもっていた。
久保田万太郎風の洒脱なお方だったと思います。
40年間続けられて「小沢昭一の小沢昭一的心」の最後の4年ぐらいはその台本を書かせて頂いていました。
小沢昭一さんは本当の意味でのタレントだったと思います。
一緒に歩いていて、新しいラーメン屋を覗き込んだり、野良猫に話しかけたり、本当に面白かったですね。(好奇心の塊)
新潟に4年間赴任、4年目にラジオで特集番組をやりたいと思い、村田文三という古い民謡歌手を取材するものだった。
「佐渡おけさ」を日本全国に広めた人。
声が合うのではないかと、小沢さんへの出演依頼を手紙でお願いした。
それが小沢さんとの最初の出会いでした。
私がNHKを辞めてから、ポツンポツンとご一緒させていただいた。
「小沢昭一的心」を書かせていただく様になる。
平成4年にNHKを退職後、阿久悠さんとコンタクトが有り、阿久悠さんのお手伝いをさせていただいたり、放送の仕事の企画などをやっていました。
2000年に 「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞することになる。
2007年に「俳風三麗花」が直木賞候補になる。
40歳になった時点でTVの企画等についていけなくなった様な気がした。
民放でやっていたときに若者向けの番組が多くて、自分の性癖とTVの企画が齟齬を生じていたと思う。
「俳魁」著書 7,5調、俳句はもともと好きだった様に思う。
友達と句会をやってみようという事になり、句会に出席するようになり、はまってゆく事になる。
母は長谷川秋子(昭和の有名な俳人)、祖母は長谷川かな女(高浜虚子門下)
そういう環境があって、家でも句会をやっていた。
私は「知水」という俳号をもっている。 現代俳句協会の会員。
私の子供の頃はフラフープがはやった時代で、豊かではなかったけれど、白黒TVがどの家庭にも広がり始めた時代です。
慶應義塾志木高等学校へ進学して、応援団(応援指導部)に入る。
慶應義塾大学文学部でも応援団に入る。
ドイツ文学の宮下啓三先生が恩師で、お芝居がすごく好きな人だった。
千田是也さんと先生は付き合いがあって、学生時代に千田是也さんと飲んだことが有るが、小沢さんの恩師でもあった、いろいろつながりが有るものです。
小説はテリトリーが狭くても良い様な感じがする。
TVは今日やることと明日やることがまるで違う素材をやってもしょうがない事だが、小説の方が体系だてて、自分の得意分野を歩んでゆく事は出来るかもしれない。
今銀座を舞台にしたものを書いていますが、それとは別に、中西龍さんをモデルにした小説を書いている。
土地を舞台にして人を絡めて書くのも好きですが、評伝みたいなものも好きです。
埼玉県出身59歳 先ごろ小沢昭一さんの人生を纏めた「明日のこころだ」を出版しました。
小沢さんと言うと、俳優、放浪芸の研究者、エッセーイスト、「小沢昭一の小沢昭一的心」のパーソナリティーとしても活躍。
三田さんは慶応大学卒業後、昭和53年にNHKに就職、ディレクターとして新潟局を振り出しに、仕事を始め、4年後東京の歌番組を制作するセクションに転勤しました。
平成4年にNHKを退職、民放等でTV番組を制作、執筆活動を始めます。
平成12年にロシア人の幇間 太鼓持ちを描いた「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞し、作家デビュー、平成19年には昭和初期を舞台に俳句の会で出会った3人娘の友情や恋愛を描いた「俳風三麗花」が137回の直木賞の候補にもなりました。
翌年にはNHKの中西龍アナウンサーの人生をまとめた「当マイクロフォン」を出版しています。
又「知水」という俳号では俳句の世界でも活躍しています。
「あしたのこころだ」 著書出版
とっても胸の中に小沢さんにまつわる声の思い出、話の内容、ハーモニカの音色が残っているんだなと改めて思いました。
小沢さんは昭和4年生まれ、平成24年に83歳で亡くなっている。
小沢さんは「変哲」という俳号をもっていた。
久保田万太郎風の洒脱なお方だったと思います。
40年間続けられて「小沢昭一の小沢昭一的心」の最後の4年ぐらいはその台本を書かせて頂いていました。
小沢昭一さんは本当の意味でのタレントだったと思います。
一緒に歩いていて、新しいラーメン屋を覗き込んだり、野良猫に話しかけたり、本当に面白かったですね。(好奇心の塊)
新潟に4年間赴任、4年目にラジオで特集番組をやりたいと思い、村田文三という古い民謡歌手を取材するものだった。
「佐渡おけさ」を日本全国に広めた人。
声が合うのではないかと、小沢さんへの出演依頼を手紙でお願いした。
それが小沢さんとの最初の出会いでした。
私がNHKを辞めてから、ポツンポツンとご一緒させていただいた。
「小沢昭一的心」を書かせていただく様になる。
平成4年にNHKを退職後、阿久悠さんとコンタクトが有り、阿久悠さんのお手伝いをさせていただいたり、放送の仕事の企画などをやっていました。
2000年に 「櫻川イワンの恋」でオール読み物新人賞で受賞することになる。
2007年に「俳風三麗花」が直木賞候補になる。
40歳になった時点でTVの企画等についていけなくなった様な気がした。
民放でやっていたときに若者向けの番組が多くて、自分の性癖とTVの企画が齟齬を生じていたと思う。
「俳魁」著書 7,5調、俳句はもともと好きだった様に思う。
友達と句会をやってみようという事になり、句会に出席するようになり、はまってゆく事になる。
母は長谷川秋子(昭和の有名な俳人)、祖母は長谷川かな女(高浜虚子門下)
そういう環境があって、家でも句会をやっていた。
私は「知水」という俳号をもっている。 現代俳句協会の会員。
私の子供の頃はフラフープがはやった時代で、豊かではなかったけれど、白黒TVがどの家庭にも広がり始めた時代です。
慶應義塾志木高等学校へ進学して、応援団(応援指導部)に入る。
慶應義塾大学文学部でも応援団に入る。
ドイツ文学の宮下啓三先生が恩師で、お芝居がすごく好きな人だった。
千田是也さんと先生は付き合いがあって、学生時代に千田是也さんと飲んだことが有るが、小沢さんの恩師でもあった、いろいろつながりが有るものです。
小説はテリトリーが狭くても良い様な感じがする。
TVは今日やることと明日やることがまるで違う素材をやってもしょうがない事だが、小説の方が体系だてて、自分の得意分野を歩んでゆく事は出来るかもしれない。
今銀座を舞台にしたものを書いていますが、それとは別に、中西龍さんをモデルにした小説を書いている。
土地を舞台にして人を絡めて書くのも好きですが、評伝みたいなものも好きです。
2015年4月25日土曜日
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(2)
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(2)
最後にはまぶたの開閉ができなくなる。
瞬きで意志で伝えることができるがそれすらできなくなる。(医師から言われる通りになる)
それでどん底の気持ちになって安楽死させなければとも思ったが、一方では母に対して否定的だったのが或る日を堺に肯定的になって、ちょっと距離を取るようになって、母の全体像が見えてきて、殺意が薄らいでゆくと、どういう風にこの体のコンディションを保とうかと、発想が変わって来て看護的な眼が出てきた。
バイタルをきちっと計って行ったら、毎日の体調が変化してゆくが、話しかけたことに対して母がちゃんと反応しているのが判った。
バイタル:血圧の上下、脈拍、顔の紅潮等。
母の動悸が烈しい時が有り、添い寝していたら、私も眠ってしまったが、動悸が直っていて、こういうことが利くのかなあと思ったりした。
植物も愛情込めて育てていると花が咲くが、母も蘭のように育てて行こうと思ってやっていたら、そうしたら凄く体調が判ってきた。
母が心配になる様なことを母に相談してはいけませんと看護師さんから言われた。
母は言い返せないので、皆自分の人生相談を母にするので、皆の秘密を母は知っていて、それを看護師さんが感づいて叱られた。
春の風が気持ちよく吹いてきたときには、ベランダに連れて行ったりして、身体に気持ちいい様なことを沢山しました。
一回先生に呼吸器を取れないからずーっと寝かせてほしいといったが、先生は母は頭がはっきりしているので、これを引っ張り出す方に向かうべきだとおっしゃった。
言葉を拾ってあげる事を考えないといけないと。
そうかと思ってそれが転機になり、大学に行くわけです。
呼吸器はずし派と読み取り派で、大学でも大激論だったが、最初は私は呼吸器はずし派だったが、先生との話の中で読み取り派の方に考えが変わって、私は読み取り派になった。
困っている人がいれば困っている人を助けるために何ができるかと考えることによって、科学が進歩してきた。
そういうひとたちを殺してしまったら、進歩は止まるだろうと思います。
困っている人を助ける方向に皆で協力して行ったり、皆のお金を費やすのが正しいと思う。
必死でその人は語りたいと思っているのであれば、拾ってあげられない私たちが未熟なんですね。
拾うためにはどうしたらいいかという方向に行かないと、人類は進歩しない。
可なりのことが体から拾えることが出来る。(体と対話してゆく それから8年になります。)
母は家の中心にいて、母は留守番ができた、ヘルパーさんがいてくれて、いつも誰かがいて、子供がいて、声をかけてくれる。
そういう事で母はおばあちゃんの役割をしていた。
母は、私が死ねば多分新しいおかあさんが来るので、健康なお母さんに育ててもらった方が孫たちも幸せだと、でも私は、お母さんは病気になった姿で生きてゆくのが子供達に取って一番教育になる、ドンドン悪くなっていったとしても、存在自体が子供達には大事だから、とにかく頑張って生きていてと、言ってしまうが、本人にすれば其身体で生きていくのは本当に辛いことだとは思います。
多臓器不全になって、体が細胞レベルで弱って来ているのが判って、最終的には家で亡くなった。
10年以上介護をして来たので、いつかこの日が来ると思って、頭の中ではシュミレーションが出来ているので、心の準備も出来ているので、きちんと自分たちだけで看取ることができた。
私も妹も「ありがとう」と言いました。 其時は涙は出なかった。
葬式では泣きました。
お棺の蓋を閉めて釘で打ちますが、あれがダメでした、そんなことをしたら出てこれなくなってしまうと思った。
体に対する愛着が凄まじくあったので、死体であっても母の体が焼けちゃうのが許し難かった。
其時はオイオイ泣きました。
ボイラーで焼かれるのが地獄の釜と思った。
母が頑張ったおかげで郵便投票が出来る様になったし、ヘルパーさんに勤務させたいと運動して法律ができたし、素人からヘルパーを養成するという事も母をきっかけにできたので、それが全国に広がってきた。
母が十字架に張り付けになったキリストと重なるんですが、どんなに辛かっただろうと思います。
難病の患者は辛いが、死んではいけないと思う。
自己肯定感は無くなるが、長く生きていくうちに何か役割を発見して、皆がそれに協力してくれる、必ずそういう言う風になってゆくのが人間の社会だと思う様になった。
90年代の後半ぐらいから呼吸器を付ける患者が凄く増えてきた。
2000年以降に介護の制度ができてきて、かなり日本の社会の中の重度障害の人たちの姿が見えるようになってきた。
日本は呼吸器が付けられるのが3割、他の国は1割以下とか1%いかとか、呼吸器をほとんど付けない。
日本はハッピーな患者さんたちが多い。
そういうALS患者の人たちがALSの新患へのパフォーマンスをして、元気になって、ということをしている。
2000年の頃に、オランダで安楽死法制化になった時に、オランダへALS協会から抗議のために呼吸器を付けて、命懸けで飛行機に乗って行ったこともある。
患者さん達が人間の限界に挑戦して、乗り越えてゆく事をドンドンやって行って制覇する快感がある。
2006年にALSを発症して3年後に呼吸器を付けて、現在日本ALS協会の副会長をされている岡部さんが、一人で暮らしていて、自分でヘルパーを育てたりしている。
岡部宏生さんからの手紙
「いろいろあるけど結構元気です。嬉しいことも喜びも沢山あります。
それを含めていろんなことが有るという事です。
きざに言うと、人の生き方がいろいろあるという事の体験者です。」
岡部さんは本当に自分は死んでしまいたくなるようないろんなつらい事ことがあって、あかるい文章が読めたという事は、私は感無量です。
自己肯定感が強くなって、自分を卑下していたのに、長生きしてくると、そういう風に言いだすというのは本当に素晴らしいことだと思う。
環境とか(体は悪くなってきてもそのままでいいよと言ってくれる様な)、人との関係性に依って自分を取り戻してくる。
岡部さんはALS協会の副会長として、各方面と交渉しているし、政治家とか政策立案者と話をして大切な法律や制度ができてゆく。
辛いことがあると、岡部さんにメールして相談したり、岡部さんのところで泣いた事もあります。
アドバイスを受けるとホッとしたりしてます。
治らない病気だけど、岡部さんはALSに勝利したと思います。
病気を知って最初は一番落ち込んでしまって自殺したり、安楽死ができる国があるがそういう法律を使って死んでしまったりとかあるが、それはもったいないと思う。
地方によっては介護環境の格差があり、自分を取り戻せない様なことがあるが、岡部さんの一番の目的は格差を無くすことではないかと思います。
自分の考え方と違った考え方をもっている人と付き合う事は宝でしょう。
違った考えを取り入れて、そうするとにっちもさっちもいかなかったのに道が開ける、そういう出会いが私の場合は多くて、あーっもう駄目だなあと思った時に、こっちに道が有ったと、開けてゆきます。
患者さん、その家族への支援は、情報の拡散です。
これはと思ったことは周りに伝える。
ALS協会は呼吸器を付けない選択も尊重する。
7割の人が呼吸器をつけないで亡くなってゆく。(本人が満足出来れば認めなければいけない)
ちゃんと説明をしないで呼吸器を付けない方に導引してしまう事があるので、その時はそれは違うでしょうと怒ります。
患者が公平に選択できるようにしてあげないといけない。(安心して呼吸器をつけてもいいという)
家族が大丈夫と言えるように、周りが一生懸命働きかけて家族を支えないといけない。
家族は支えられると、家族は安心して大丈夫だよと言えるようになるので、そこまで何とか、整えたい。
ALSから学んだことは、ありのままの自分を認めること、弱い自分を許すことでもある。
できない、できなくていいやとなった時に、先に進める。
患者さんがのたうちまわりながら、段々自分でもういいやと解除してゆくというのが、患者さんのチャレンジを見ながら、私も頑張るのを辞めなきゃと、いまだに思う。
最初の解除は自分で介護を仕切っていたが、それを止めてヘルパーさんに入ってもらったが、それが最初のまあいいやというものでした。
弱いという事は自由という事に近い。
出来ないことは出来る人にやってもらうという事は楽になるし、そうすると人と繋がってゆく。
自分を大切にできないと、人を大切にできないし、或る意味利己主義でいいと思う。
自分が大事と思う人ばっかりだったら、お互いに尊重できる。
自分の生きたい生き方が達成できる様な社会になってゆくと思うが、日本が一番考えなくてはいけないことだと思います。
最後にはまぶたの開閉ができなくなる。
瞬きで意志で伝えることができるがそれすらできなくなる。(医師から言われる通りになる)
それでどん底の気持ちになって安楽死させなければとも思ったが、一方では母に対して否定的だったのが或る日を堺に肯定的になって、ちょっと距離を取るようになって、母の全体像が見えてきて、殺意が薄らいでゆくと、どういう風にこの体のコンディションを保とうかと、発想が変わって来て看護的な眼が出てきた。
バイタルをきちっと計って行ったら、毎日の体調が変化してゆくが、話しかけたことに対して母がちゃんと反応しているのが判った。
バイタル:血圧の上下、脈拍、顔の紅潮等。
母の動悸が烈しい時が有り、添い寝していたら、私も眠ってしまったが、動悸が直っていて、こういうことが利くのかなあと思ったりした。
植物も愛情込めて育てていると花が咲くが、母も蘭のように育てて行こうと思ってやっていたら、そうしたら凄く体調が判ってきた。
母が心配になる様なことを母に相談してはいけませんと看護師さんから言われた。
母は言い返せないので、皆自分の人生相談を母にするので、皆の秘密を母は知っていて、それを看護師さんが感づいて叱られた。
春の風が気持ちよく吹いてきたときには、ベランダに連れて行ったりして、身体に気持ちいい様なことを沢山しました。
一回先生に呼吸器を取れないからずーっと寝かせてほしいといったが、先生は母は頭がはっきりしているので、これを引っ張り出す方に向かうべきだとおっしゃった。
言葉を拾ってあげる事を考えないといけないと。
そうかと思ってそれが転機になり、大学に行くわけです。
呼吸器はずし派と読み取り派で、大学でも大激論だったが、最初は私は呼吸器はずし派だったが、先生との話の中で読み取り派の方に考えが変わって、私は読み取り派になった。
困っている人がいれば困っている人を助けるために何ができるかと考えることによって、科学が進歩してきた。
そういうひとたちを殺してしまったら、進歩は止まるだろうと思います。
困っている人を助ける方向に皆で協力して行ったり、皆のお金を費やすのが正しいと思う。
必死でその人は語りたいと思っているのであれば、拾ってあげられない私たちが未熟なんですね。
拾うためにはどうしたらいいかという方向に行かないと、人類は進歩しない。
可なりのことが体から拾えることが出来る。(体と対話してゆく それから8年になります。)
母は家の中心にいて、母は留守番ができた、ヘルパーさんがいてくれて、いつも誰かがいて、子供がいて、声をかけてくれる。
そういう事で母はおばあちゃんの役割をしていた。
母は、私が死ねば多分新しいおかあさんが来るので、健康なお母さんに育ててもらった方が孫たちも幸せだと、でも私は、お母さんは病気になった姿で生きてゆくのが子供達に取って一番教育になる、ドンドン悪くなっていったとしても、存在自体が子供達には大事だから、とにかく頑張って生きていてと、言ってしまうが、本人にすれば其身体で生きていくのは本当に辛いことだとは思います。
多臓器不全になって、体が細胞レベルで弱って来ているのが判って、最終的には家で亡くなった。
10年以上介護をして来たので、いつかこの日が来ると思って、頭の中ではシュミレーションが出来ているので、心の準備も出来ているので、きちんと自分たちだけで看取ることができた。
私も妹も「ありがとう」と言いました。 其時は涙は出なかった。
葬式では泣きました。
お棺の蓋を閉めて釘で打ちますが、あれがダメでした、そんなことをしたら出てこれなくなってしまうと思った。
体に対する愛着が凄まじくあったので、死体であっても母の体が焼けちゃうのが許し難かった。
其時はオイオイ泣きました。
ボイラーで焼かれるのが地獄の釜と思った。
母が頑張ったおかげで郵便投票が出来る様になったし、ヘルパーさんに勤務させたいと運動して法律ができたし、素人からヘルパーを養成するという事も母をきっかけにできたので、それが全国に広がってきた。
母が十字架に張り付けになったキリストと重なるんですが、どんなに辛かっただろうと思います。
難病の患者は辛いが、死んではいけないと思う。
自己肯定感は無くなるが、長く生きていくうちに何か役割を発見して、皆がそれに協力してくれる、必ずそういう言う風になってゆくのが人間の社会だと思う様になった。
90年代の後半ぐらいから呼吸器を付ける患者が凄く増えてきた。
2000年以降に介護の制度ができてきて、かなり日本の社会の中の重度障害の人たちの姿が見えるようになってきた。
日本は呼吸器が付けられるのが3割、他の国は1割以下とか1%いかとか、呼吸器をほとんど付けない。
日本はハッピーな患者さんたちが多い。
そういうALS患者の人たちがALSの新患へのパフォーマンスをして、元気になって、ということをしている。
2000年の頃に、オランダで安楽死法制化になった時に、オランダへALS協会から抗議のために呼吸器を付けて、命懸けで飛行機に乗って行ったこともある。
患者さん達が人間の限界に挑戦して、乗り越えてゆく事をドンドンやって行って制覇する快感がある。
2006年にALSを発症して3年後に呼吸器を付けて、現在日本ALS協会の副会長をされている岡部さんが、一人で暮らしていて、自分でヘルパーを育てたりしている。
岡部宏生さんからの手紙
「いろいろあるけど結構元気です。嬉しいことも喜びも沢山あります。
それを含めていろんなことが有るという事です。
きざに言うと、人の生き方がいろいろあるという事の体験者です。」
岡部さんは本当に自分は死んでしまいたくなるようないろんなつらい事ことがあって、あかるい文章が読めたという事は、私は感無量です。
自己肯定感が強くなって、自分を卑下していたのに、長生きしてくると、そういう風に言いだすというのは本当に素晴らしいことだと思う。
環境とか(体は悪くなってきてもそのままでいいよと言ってくれる様な)、人との関係性に依って自分を取り戻してくる。
岡部さんはALS協会の副会長として、各方面と交渉しているし、政治家とか政策立案者と話をして大切な法律や制度ができてゆく。
辛いことがあると、岡部さんにメールして相談したり、岡部さんのところで泣いた事もあります。
アドバイスを受けるとホッとしたりしてます。
治らない病気だけど、岡部さんはALSに勝利したと思います。
病気を知って最初は一番落ち込んでしまって自殺したり、安楽死ができる国があるがそういう法律を使って死んでしまったりとかあるが、それはもったいないと思う。
地方によっては介護環境の格差があり、自分を取り戻せない様なことがあるが、岡部さんの一番の目的は格差を無くすことではないかと思います。
自分の考え方と違った考え方をもっている人と付き合う事は宝でしょう。
違った考えを取り入れて、そうするとにっちもさっちもいかなかったのに道が開ける、そういう出会いが私の場合は多くて、あーっもう駄目だなあと思った時に、こっちに道が有ったと、開けてゆきます。
患者さん、その家族への支援は、情報の拡散です。
これはと思ったことは周りに伝える。
ALS協会は呼吸器を付けない選択も尊重する。
7割の人が呼吸器をつけないで亡くなってゆく。(本人が満足出来れば認めなければいけない)
ちゃんと説明をしないで呼吸器を付けない方に導引してしまう事があるので、その時はそれは違うでしょうと怒ります。
患者が公平に選択できるようにしてあげないといけない。(安心して呼吸器をつけてもいいという)
家族が大丈夫と言えるように、周りが一生懸命働きかけて家族を支えないといけない。
家族は支えられると、家族は安心して大丈夫だよと言えるようになるので、そこまで何とか、整えたい。
ALSから学んだことは、ありのままの自分を認めること、弱い自分を許すことでもある。
できない、できなくていいやとなった時に、先に進める。
患者さんがのたうちまわりながら、段々自分でもういいやと解除してゆくというのが、患者さんのチャレンジを見ながら、私も頑張るのを辞めなきゃと、いまだに思う。
最初の解除は自分で介護を仕切っていたが、それを止めてヘルパーさんに入ってもらったが、それが最初のまあいいやというものでした。
弱いという事は自由という事に近い。
出来ないことは出来る人にやってもらうという事は楽になるし、そうすると人と繋がってゆく。
自分を大切にできないと、人を大切にできないし、或る意味利己主義でいいと思う。
自分が大事と思う人ばっかりだったら、お互いに尊重できる。
自分の生きたい生き方が達成できる様な社会になってゆくと思うが、日本が一番考えなくてはいけないことだと思います。
2015年4月24日金曜日
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(1)
川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(1)
東京出身の52歳 20年前夫の転勤でイギリスに住んでいたときに、実の母親が難病のALSを発症しました。
筋委縮性側索硬化症と呼ばれる神経の病気で、身体が動かしにくくなって筋肉が痩せていきます。
進行すると手足だけで無く、呼吸に必要な筋肉まで動かせなくなって、器官切開して呼吸器を付けるか否かの重い選択を迫られることもあります。
母親の発症当時、主婦だった川口さんはイギリスから帰国して介護にあたります。
そして同じ病に罹った患者や其家族、周囲の人達と支え合い12年間の介護の末に、母親をみとりました。
そのご川口さんは介護の体験を著書「逝かない身体」に纏めて大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
1995年に母のALSの病気をイギリスに住んでいたときに、母からの電話で知った。
調べたらとんでもない病気であることを知った。
夫をイギリスに残して、子供と帰国する事になる。
母を看取ってから又イギリスにもどってくることを考えていたが、実際には帰れなかった。
私が帰ってきたことにより、孫の顔をみて、介護体制ができ、母は呼吸器を付けたいという風に、考えが変わった。
父と妹はそれまで介護していたが、介護に疲れていて、帰国したときには家族の笑顔はなかった。
暫くは病院にいて、泊まり込みで母のそばにいて、母の手に鈴を縛り付けて、鈴の音で起きて吸引したり、排泄の介助をしていたりして、24時間貼りつく壮絶な介護をスタートした。
重度身体障害者でしかも意識がしっかりしている介護は、大変特殊な介護でした。
やり始めたら是は大変で、何時まで続くのかと思った。
寝たきりだが、意識がはっきりしている。
母が言いたいことが有りそうだと、眼をぱちぱちっとやるので、文字盤をもって行って、透明な板に50音が書いてあって、母が目で見詰めた処の文字を拾っていってコミュニケーションを取るが母が起きている間中していました。
自分のことができなかった。
妹は仕事に出かけていたので、帰って来てから母の文字盤取りをやるので、夜は寝てもらうが母が3時間ぐらいで起きてしまう。
父は朝の4時ぐらいから交代して、妹は寝床に入って仮眠して会社に行くという状況でした。
3交代体制でした。(私、父、妹)
手、身体が重いという意思表示があったりするが、身体は動かないのに身体の重力の影響で感じるらしく、それを誤魔化すのにずーっと動かしてあげる。 足、手、お尻など(身体の微調整)
痰の吸引(15分おきに吸引)、排泄、眼薬さしたり、ずーっと体の管理をしつつ、文字盤を読んで時々和やかな会話になったりするときもある。
家族も風邪を引いたりするので、高熱が出ていても文字盤を取るようにという事で、休ませてくれなくてぼろぼろでした。
一番腹たったのは3歳の子供がインフルエンザで高熱を出して、母に呼吸器を付けて小児科にというわけにもいかず、でもこのままにしていたら子供が死んでしまうかもしれないので、母に言った時に駄目と言ったんです。
母は「あきらより自分の命なのね」 とか皮肉なことを言って母が泣いたりした。
家族の関係って言うのは修復ができないぐらい、ずたずたにするんです、この病気は、それが恐ろしい。
介護保険前の時代だったので、家族だけで全部やって下さいという時代だったので、私は実家に取られてしまったような状態でした。
最初私の家庭の事、母の介護の両方とも頑張ろうと思っていたが、きびしかった。
呼吸器を付ければ進行しなくなると思っていたが、呼吸器を付けても進行するので、主治医の先生に言ったが、私はちゃんとわかっていなかった。
無駄な事をしてしまったのかと思いました。
母は眼も開けられなくなって、呼吸器を付けなければよかったねと、無理やりイギリスから帰ってこなければよかったのではと思ったりして、徹底的に自分を責めてしまって落ち込んでしまって、「ごめんね、ごめんね」と思っていたが、「ごめんね」は間違っていると思った、母が頑張って生きている事に対して、「ごめんね」は否定する事になるので、それは間違っていたと思った。
親子喧嘩で呼吸器をはずしたりしたこともある。 売り言葉に買い言葉で「呼吸器を取って」というので「取ってやる」と取ったりしたこともあるが、殺すことはできない。
そんなことを父も妹も似たようなことが有った様です。
日本ではいったん呼吸を付けると外せない事になっている。
安楽死の検索をするようになって、安楽死ができるという、2000年にオランダで法案が通ったことを知る。
なんで日本ではできないのか調べ始めた。
学者等にメールを打ちまくった。
返事は森岡 正博先生と立岩 真也先生(立命館大学)から返事が来た。
介護は家族だけでやるもんだと思っていたら、区に問い合わせたらヘルパーの制度が有ることを知る。
それで段々楽になっていった。
メールを介して人とのつながりもできるようになった。
外にいけるようになると、自分がやりたいことを自分でやる様になる。
貯金を全部使って、まずチェロを購入した。
訪問看護師さんが妹に「あなたたち兄弟はどんな悪いことをしても、許されるのよ、神様にゆるしてもらえるから。」と言って帰ったと聞いて、悪い事って何だろうと考えたが、訪問看護師さんがそう言わしめたぐらい、はたから見るとそれぐらい大変だった。
生真面目な良妻賢母を止めることにした。(悪いこと)
娘にバイオリンを習わせていたが、ギリギリの環境の中では、私も娘も面白くなかったので辞めさせて、塾、英語、水泳全部やめました。
自分がやりたいものを一切辞めていたが、するようになった。
チェロ、パソコンをやり始めてそれから変わって行って、情報収集をして、客観視出来るようになった。
フラメンコもやり始める。(ラテン系の性格が芽生える)
仲間を増やそうという思いが出てきて、会社を興した。
長く続けるためにはボランティアではだめで、有償でやらないと駄目だと思う。
どういう風にヘルパーを募集して、どういう風に養成して言ったらいいか障害者のところで聞いた。
アルバイト募集雑誌に広告として出して、最初は私の母で研修、文字盤を教えて行って、自分の会社に登録して、他の患者さんのところに派遣して会社経営をするようになった。
区の行政の人からも頼まれるようになりました。
母は元気なころは、認知症の家族を支援する会をしていたメンバーの一人だったので、介護の問題を社会の問題として捉えていたので、選挙が大事だと思っていて、寝ていても郵便投票出来るという事で取り寄せたが、自分で書かないといけないという事で、それはおかしいという事になり、新聞社が来て聞いてきて、そのときは眼を輝かせていて、私は母が戻ってきたと感じて、母も変わって来て、この病気は貧困の人がなったら大変だとか生活保護のこととか、、自分の事ではないことを言い出して、それが母の生き甲斐になってきた。
母が生き生きしてくると介護も変わってくる。(そのころからヘルパーさんも来たので私自身も助かった)
法律を変えなければいけないという、生き甲斐を見出したと思う。
呼吸器を付ける段階は、生き甲斐なんて、ほとんどの人が見いだせない、絶望している時に呼吸器を付ける。
社会的な意義だけではなくても、ベランダで花を育ててそれを楽しみにしている患者さん、ペットを飼うとか、孫の成長を見届けたいとか、そういう事に生き甲斐を見出してゆく人がいます。
一生懸命になってALSの支援をしている人がいて、その魅力は人間性があらわになってくるところ、、どん底で不幸そのものからたち直ってゆくのを、すぐ近くで見ている快感、それでALSに魅了される。
東京出身の52歳 20年前夫の転勤でイギリスに住んでいたときに、実の母親が難病のALSを発症しました。
筋委縮性側索硬化症と呼ばれる神経の病気で、身体が動かしにくくなって筋肉が痩せていきます。
進行すると手足だけで無く、呼吸に必要な筋肉まで動かせなくなって、器官切開して呼吸器を付けるか否かの重い選択を迫られることもあります。
母親の発症当時、主婦だった川口さんはイギリスから帰国して介護にあたります。
そして同じ病に罹った患者や其家族、周囲の人達と支え合い12年間の介護の末に、母親をみとりました。
そのご川口さんは介護の体験を著書「逝かない身体」に纏めて大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
1995年に母のALSの病気をイギリスに住んでいたときに、母からの電話で知った。
調べたらとんでもない病気であることを知った。
夫をイギリスに残して、子供と帰国する事になる。
母を看取ってから又イギリスにもどってくることを考えていたが、実際には帰れなかった。
私が帰ってきたことにより、孫の顔をみて、介護体制ができ、母は呼吸器を付けたいという風に、考えが変わった。
父と妹はそれまで介護していたが、介護に疲れていて、帰国したときには家族の笑顔はなかった。
暫くは病院にいて、泊まり込みで母のそばにいて、母の手に鈴を縛り付けて、鈴の音で起きて吸引したり、排泄の介助をしていたりして、24時間貼りつく壮絶な介護をスタートした。
重度身体障害者でしかも意識がしっかりしている介護は、大変特殊な介護でした。
やり始めたら是は大変で、何時まで続くのかと思った。
寝たきりだが、意識がはっきりしている。
母が言いたいことが有りそうだと、眼をぱちぱちっとやるので、文字盤をもって行って、透明な板に50音が書いてあって、母が目で見詰めた処の文字を拾っていってコミュニケーションを取るが母が起きている間中していました。
自分のことができなかった。
妹は仕事に出かけていたので、帰って来てから母の文字盤取りをやるので、夜は寝てもらうが母が3時間ぐらいで起きてしまう。
父は朝の4時ぐらいから交代して、妹は寝床に入って仮眠して会社に行くという状況でした。
3交代体制でした。(私、父、妹)
手、身体が重いという意思表示があったりするが、身体は動かないのに身体の重力の影響で感じるらしく、それを誤魔化すのにずーっと動かしてあげる。 足、手、お尻など(身体の微調整)
痰の吸引(15分おきに吸引)、排泄、眼薬さしたり、ずーっと体の管理をしつつ、文字盤を読んで時々和やかな会話になったりするときもある。
家族も風邪を引いたりするので、高熱が出ていても文字盤を取るようにという事で、休ませてくれなくてぼろぼろでした。
一番腹たったのは3歳の子供がインフルエンザで高熱を出して、母に呼吸器を付けて小児科にというわけにもいかず、でもこのままにしていたら子供が死んでしまうかもしれないので、母に言った時に駄目と言ったんです。
母は「あきらより自分の命なのね」 とか皮肉なことを言って母が泣いたりした。
家族の関係って言うのは修復ができないぐらい、ずたずたにするんです、この病気は、それが恐ろしい。
介護保険前の時代だったので、家族だけで全部やって下さいという時代だったので、私は実家に取られてしまったような状態でした。
最初私の家庭の事、母の介護の両方とも頑張ろうと思っていたが、きびしかった。
呼吸器を付ければ進行しなくなると思っていたが、呼吸器を付けても進行するので、主治医の先生に言ったが、私はちゃんとわかっていなかった。
無駄な事をしてしまったのかと思いました。
母は眼も開けられなくなって、呼吸器を付けなければよかったねと、無理やりイギリスから帰ってこなければよかったのではと思ったりして、徹底的に自分を責めてしまって落ち込んでしまって、「ごめんね、ごめんね」と思っていたが、「ごめんね」は間違っていると思った、母が頑張って生きている事に対して、「ごめんね」は否定する事になるので、それは間違っていたと思った。
親子喧嘩で呼吸器をはずしたりしたこともある。 売り言葉に買い言葉で「呼吸器を取って」というので「取ってやる」と取ったりしたこともあるが、殺すことはできない。
そんなことを父も妹も似たようなことが有った様です。
日本ではいったん呼吸を付けると外せない事になっている。
安楽死の検索をするようになって、安楽死ができるという、2000年にオランダで法案が通ったことを知る。
なんで日本ではできないのか調べ始めた。
学者等にメールを打ちまくった。
返事は森岡 正博先生と立岩 真也先生(立命館大学)から返事が来た。
介護は家族だけでやるもんだと思っていたら、区に問い合わせたらヘルパーの制度が有ることを知る。
それで段々楽になっていった。
メールを介して人とのつながりもできるようになった。
外にいけるようになると、自分がやりたいことを自分でやる様になる。
貯金を全部使って、まずチェロを購入した。
訪問看護師さんが妹に「あなたたち兄弟はどんな悪いことをしても、許されるのよ、神様にゆるしてもらえるから。」と言って帰ったと聞いて、悪い事って何だろうと考えたが、訪問看護師さんがそう言わしめたぐらい、はたから見るとそれぐらい大変だった。
生真面目な良妻賢母を止めることにした。(悪いこと)
娘にバイオリンを習わせていたが、ギリギリの環境の中では、私も娘も面白くなかったので辞めさせて、塾、英語、水泳全部やめました。
自分がやりたいものを一切辞めていたが、するようになった。
チェロ、パソコンをやり始めてそれから変わって行って、情報収集をして、客観視出来るようになった。
フラメンコもやり始める。(ラテン系の性格が芽生える)
仲間を増やそうという思いが出てきて、会社を興した。
長く続けるためにはボランティアではだめで、有償でやらないと駄目だと思う。
どういう風にヘルパーを募集して、どういう風に養成して言ったらいいか障害者のところで聞いた。
アルバイト募集雑誌に広告として出して、最初は私の母で研修、文字盤を教えて行って、自分の会社に登録して、他の患者さんのところに派遣して会社経営をするようになった。
区の行政の人からも頼まれるようになりました。
母は元気なころは、認知症の家族を支援する会をしていたメンバーの一人だったので、介護の問題を社会の問題として捉えていたので、選挙が大事だと思っていて、寝ていても郵便投票出来るという事で取り寄せたが、自分で書かないといけないという事で、それはおかしいという事になり、新聞社が来て聞いてきて、そのときは眼を輝かせていて、私は母が戻ってきたと感じて、母も変わって来て、この病気は貧困の人がなったら大変だとか生活保護のこととか、、自分の事ではないことを言い出して、それが母の生き甲斐になってきた。
母が生き生きしてくると介護も変わってくる。(そのころからヘルパーさんも来たので私自身も助かった)
法律を変えなければいけないという、生き甲斐を見出したと思う。
呼吸器を付ける段階は、生き甲斐なんて、ほとんどの人が見いだせない、絶望している時に呼吸器を付ける。
社会的な意義だけではなくても、ベランダで花を育ててそれを楽しみにしている患者さん、ペットを飼うとか、孫の成長を見届けたいとか、そういう事に生き甲斐を見出してゆく人がいます。
一生懸命になってALSの支援をしている人がいて、その魅力は人間性があらわになってくるところ、、どん底で不幸そのものからたち直ってゆくのを、すぐ近くで見ている快感、それでALSに魅了される。
2015年4月23日木曜日
藤原道山 (尺八演奏家) ・尺八で尺八を超える
藤原道山 (尺八演奏家) ・尺八で尺八を超える
邦楽界の貴公子と呼ばれる藤原さんは、1972年東京都出身42歳、人間国宝の尺八演奏家山本邦山に師事し、東京芸術大学音楽学部を卒業、2001年にCDデビューしました。
これまでにCD14枚を発売してきたほか、尺八演奏の新しい可能性を求め、坂本龍一さんや、野村満斎さんを初め様々な分野のアーティストと共演を重ねてきました。
デビューから15年、更に新しい表現を目指す、藤原さんに伺いました。
「アメイジング・グレイス」 讃美歌として歌わている作品 祈りの曲
尺八も江戸時代に虚無僧が祈りを込めて吹いていたといわれる。
祈りをささげるような気持で演奏しています。
尺八の音色は様々なものであるにもかかわらず、荒々しいところがクローズアップされていて、多彩な音を知ってもらいたいと思って、それとは対極にある音を演奏して、見直してもらう事が出来るのでは無いかと、そんな思いでこういう音を使っている。
音楽は何でも好きで、リコーダーが特に好きで、吹いていた。
祖母や母が琴をやっていたので、小学校5年生の時に、琴よりも尺八の方がいいのではと勧められたのがきっかけです。
最初音が出なかったのが衝撃的だった。
悔しくてたまらなかった。
1週間ぐらいしたらようやく音らしきものが出て、非常に嬉しかった。
徐々に音が出てくる。
次に曲が吹けるようになって、なってきた。
最初は街のお師匠さんに習って、途中から山本邦山さんに習う様になった。
先生はほとんど細かいことをおっしゃらなくて、自分の演奏を見てとって生きなさいというタイプだった、丁寧に教えるのではなく、逆だったからよかったと思う。
舞台に声を掛けられて、自分にも勉強になり、別の集中力が加わっている様な気がして、一つの舞台は100回の練習に勝るといわれる。
東京芸術大学の邦学部に入る。
クラッシック、民族音楽などにも接して、仲間にも知り合えて取っても大きな財産になりました。
5つの穴しかない楽器 表に4つ、裏に1つ穴があいている。 非常にシンプルな楽器。
普通に演奏すると5つの音しか出ないが、洋楽の作品をやると5つだけではできないし、邦楽でもいろんな音を使っている。
いろんな技が有る。
①息 息の調整によって様々な音が出る。 澄んだ音から荒々しい音等。
②指 指孔 直径1cmの穴があるが、半分開けたり1/4開けたりして、部妙な音程を作ってゆく。
微妙に動かせば無限大の音ができるはず。 新しい尺八に慣れるには2~3年ぐらいかかる
③首 一番特徴的 縦に振ると音の高さが変わる。 首を上げると音が高くなる。
横に振るとビブラートがかかる。
3つの組み合わせで1音、1音作ってゆく。
ちょっとしたニュアンスの差が出てきてしまうので、或る意味自分の考えている事がダイレクトに出てくる楽器なので、恐い楽器であると同時に面白い楽器だと思う。
楽器をコントロールをすることが難しい。
自分の感情、思いと出てくる音が一致するようになるが、そこまで来るのに長い道のりです。
今出している音が全てなので、後で反省する事はあるかもしれないが、今の等身大の自分という意味ではそれが正解なんだと思います。
2001年にCDを初めて作って、毎回違うことをやりたいと思っている。
尺八を知らない人が多いため、今までと同じことをしていたら、注目してもらえないと思って。
13枚常に違ったアプローチで作ってきました。
「MINORI」の曲 ウイーンフィルコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ(バイオリニスト)、から参加してほしいとの事でゲスト出演して、其時に新しく作ったのが「実のり」です。
五穀豊穣、の五と尺八の穴の数の五の音 五を掛けあわせた曲です。
坂本龍一、野村満斎氏等、違った分野の人と共演。
自分の体にないものを得ることができる楽しさ、喜びが有って、又リンクする部分が有って、新たな創作につながっていく事が往々にしてある。
舞台をやっていると役者さんのタイミング、凄い役者さんはこちらの音をしっかり聞いていて、私が吹いたテンションをそのまま役にぶつけられるというのを、自分が感じ取ってから出すのが怖くなってしまったことが有る。
今の自分がもっとも表現できるものは、自分で作ってゆく作品ではないかと思うようになって、すこしづつ作るようになった。
じっくり自分の心の中で醸成されたものが出てくる感じで作曲には時間がかかる。
東京芸術大学で後進への指導もしている。
自分としては凄く学んでいるなあと思う。
自分が一生懸命やっている姿を見せるのが、大事ではないかと思っている。
この15年間は出会いが有ったことだと思う、出会うことによっていろいろ自分の中になかったものを得ることができたことは非常に大きいことだと思う。
新しいことをやってゆく事の壁、伝統的なことを掘り下げてゆく掘る作業も大切だなあと思う。
壁があるからこそ次に行こうという気持ちが、常に思えるのではないかと言う気がする。
「手塚治虫のブッダ」ー赤い砂漠よ!美しくー の曲
邦楽界の貴公子と呼ばれる藤原さんは、1972年東京都出身42歳、人間国宝の尺八演奏家山本邦山に師事し、東京芸術大学音楽学部を卒業、2001年にCDデビューしました。
これまでにCD14枚を発売してきたほか、尺八演奏の新しい可能性を求め、坂本龍一さんや、野村満斎さんを初め様々な分野のアーティストと共演を重ねてきました。
デビューから15年、更に新しい表現を目指す、藤原さんに伺いました。
「アメイジング・グレイス」 讃美歌として歌わている作品 祈りの曲
尺八も江戸時代に虚無僧が祈りを込めて吹いていたといわれる。
祈りをささげるような気持で演奏しています。
尺八の音色は様々なものであるにもかかわらず、荒々しいところがクローズアップされていて、多彩な音を知ってもらいたいと思って、それとは対極にある音を演奏して、見直してもらう事が出来るのでは無いかと、そんな思いでこういう音を使っている。
音楽は何でも好きで、リコーダーが特に好きで、吹いていた。
祖母や母が琴をやっていたので、小学校5年生の時に、琴よりも尺八の方がいいのではと勧められたのがきっかけです。
最初音が出なかったのが衝撃的だった。
悔しくてたまらなかった。
1週間ぐらいしたらようやく音らしきものが出て、非常に嬉しかった。
徐々に音が出てくる。
次に曲が吹けるようになって、なってきた。
最初は街のお師匠さんに習って、途中から山本邦山さんに習う様になった。
先生はほとんど細かいことをおっしゃらなくて、自分の演奏を見てとって生きなさいというタイプだった、丁寧に教えるのではなく、逆だったからよかったと思う。
舞台に声を掛けられて、自分にも勉強になり、別の集中力が加わっている様な気がして、一つの舞台は100回の練習に勝るといわれる。
東京芸術大学の邦学部に入る。
クラッシック、民族音楽などにも接して、仲間にも知り合えて取っても大きな財産になりました。
5つの穴しかない楽器 表に4つ、裏に1つ穴があいている。 非常にシンプルな楽器。
普通に演奏すると5つの音しか出ないが、洋楽の作品をやると5つだけではできないし、邦楽でもいろんな音を使っている。
いろんな技が有る。
①息 息の調整によって様々な音が出る。 澄んだ音から荒々しい音等。
②指 指孔 直径1cmの穴があるが、半分開けたり1/4開けたりして、部妙な音程を作ってゆく。
微妙に動かせば無限大の音ができるはず。 新しい尺八に慣れるには2~3年ぐらいかかる
③首 一番特徴的 縦に振ると音の高さが変わる。 首を上げると音が高くなる。
横に振るとビブラートがかかる。
3つの組み合わせで1音、1音作ってゆく。
ちょっとしたニュアンスの差が出てきてしまうので、或る意味自分の考えている事がダイレクトに出てくる楽器なので、恐い楽器であると同時に面白い楽器だと思う。
楽器をコントロールをすることが難しい。
自分の感情、思いと出てくる音が一致するようになるが、そこまで来るのに長い道のりです。
今出している音が全てなので、後で反省する事はあるかもしれないが、今の等身大の自分という意味ではそれが正解なんだと思います。
2001年にCDを初めて作って、毎回違うことをやりたいと思っている。
尺八を知らない人が多いため、今までと同じことをしていたら、注目してもらえないと思って。
13枚常に違ったアプローチで作ってきました。
「MINORI」の曲 ウイーンフィルコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ(バイオリニスト)、から参加してほしいとの事でゲスト出演して、其時に新しく作ったのが「実のり」です。
五穀豊穣、の五と尺八の穴の数の五の音 五を掛けあわせた曲です。
坂本龍一、野村満斎氏等、違った分野の人と共演。
自分の体にないものを得ることができる楽しさ、喜びが有って、又リンクする部分が有って、新たな創作につながっていく事が往々にしてある。
舞台をやっていると役者さんのタイミング、凄い役者さんはこちらの音をしっかり聞いていて、私が吹いたテンションをそのまま役にぶつけられるというのを、自分が感じ取ってから出すのが怖くなってしまったことが有る。
今の自分がもっとも表現できるものは、自分で作ってゆく作品ではないかと思うようになって、すこしづつ作るようになった。
じっくり自分の心の中で醸成されたものが出てくる感じで作曲には時間がかかる。
東京芸術大学で後進への指導もしている。
自分としては凄く学んでいるなあと思う。
自分が一生懸命やっている姿を見せるのが、大事ではないかと思っている。
この15年間は出会いが有ったことだと思う、出会うことによっていろいろ自分の中になかったものを得ることができたことは非常に大きいことだと思う。
新しいことをやってゆく事の壁、伝統的なことを掘り下げてゆく掘る作業も大切だなあと思う。
壁があるからこそ次に行こうという気持ちが、常に思えるのではないかと言う気がする。
「手塚治虫のブッダ」ー赤い砂漠よ!美しくー の曲
2015年4月22日水曜日
渡辺文学(情報誌編集長) ・ノンスモーカーもスモーカーも救いたい
渡辺文学(タバコ問題情報誌編集長) ・ノンスモーカーもスモーカーも救いたい
77歳 渡辺さんは39歳の頃、1日60本のたばこを吸って居たんだそうです。
煙草の害についてのニュースを見たのを機にして禁煙をされました。
その後煙草の煙に悩まされている人と煙草を辞めたい人を救いたいと考えて禁煙運動をスタートします。
禁煙に関する情報誌をほぼ毎月発行していますが、家族の反対や資金不足等数々の苦難に直面したという事です。
渡辺さんはそれらを乗り越えて情報誌は今年で26年目を迎えました。
今後も生涯をかけて禁煙運動を続けるという渡辺に伺いました。
情報誌は、禁煙運動の報告とか、禁煙運動をしている医療施設の取り組み、体験談とか、等でA4サイズに8ページに 纏めている。
発行部数は1000部で購読者は、学校の先生、医者、弁護士、企業の経営者、一般の主婦など幅広く読んでもらっている。
禁煙運動を地元でいろいろ活動されている方が多い。
スモークフリーキャラバン いろんな団体とともに、全国各地を回る。
2010年に神奈川県で受動喫煙防止条例が出来て、兵庫県でも作りたいという動きが有り、東海道スモークフリーキャラバンと銘を打って、静岡を皮切りに、兵庫県までキャラバンする。
県知事、議会に受動喫煙防止条例要望書をもって出掛けました。 全国に展開。
厚生労働省が作った健康増進法、2005年に煙草規制枠組み条約(国際条約)の中でたばこに対する意識が進んだ。
3年間回って、地元の自治体に報告する。
大学の野球部の時代に19歳の時にたばこを吸い始めた。
1日60本を吸う様になる。(最後の数年間)
たばこも車も必要悪だと思いながら仕事をしていたが、スピード違反で捕まり免許停止になる。
その夜NHKでイギリスの国立医師会が1本吸うと、5分30秒寿命が縮まりますと言う放送があり、60本だと10年間寿命が短くなる事になり愕然とする。
1977年5月6日(放送を見た日)に断煙に踏み切る。
煙草をくわえて、この煙草に火を付けなければいいと思って、箱に戻すことを繰り返し、3カ月ぐらいそんなことをした。
疑似喫煙を煙草現物でやっていた。
他に煙草を吸いたくなったときには、深呼吸、歯を磨いたり、面白い本を読んだりビデオを見たりして気分転換をした。
辞めて、寝起きが良くなり、食事がおいしくなり、健康に良くなった。
お金がひと月 1万円の節約になった。
国際会議に会員のカンパで出かけて、海外の交流、情報を貰って国内に役立てることができたので非常に良かった。
煙草が無くてもストレスが無くなるという事はよくわかった、思い込みだったと思う。
世の中が段々変わってくるのが皆と実感できる楽しさ、面白さが、辞めて良かったと思う最大の実感です。
コピーライターの中田みどりさんが嫌煙権という絵本作りをやっていた。
1975年に「嫌煙権」という言葉を知った。(そのころはまだ煙草を吸っていた)
1978年2月18日 嫌煙権確立を目指す会が作られて、提唱者の中田さんから今日の司会進行をやってよと言われて、それがライフワークになるとは思わなかった。
1978年は喫煙率が男性は44.7% 女性は10%程度。
新幹線のこだま号に1車両しか禁煙車両は無かったし、病院の待合室は禁煙ではなかった。
嫌煙権に対する反響は手紙等が多くあり、この運動は期待されているなと痛感しました。
最初国会議員に訴えていこうと、国会議員にアンケートをやりました。
8名の議員の方が賛同していただいた。
当時の衆議院議員の登坂重次郎さんが公害特別委員会で厚生省に対してして、国立病院と療養所の待合室を禁煙にしてほしいと、要望して、五月に禁煙にする。
国が禁煙権を認めたという報道もあった。
運動がどんどん広がってゆく。
息の長い運動にしないといけないと思った。
1985年に煙草問題情報センターを設立、この時から煙草問題を解決する運動で、生計を立てようと決意。
家族からは反対されるが、妻を説得して継続する意思を固めた。
日本の遅れた状況を何とかしたいと思った。
1988年WHOから禁煙運動賞を受賞、同賞受賞者はカナダの厚生大臣、アメリカの公衆衛生局長官、予防癌学研究所の平山雄所長だった。
1987年に第6回世界会議が日本で行われて、国内の団体との連携をして連絡役を行ったのが評価されたのかと思う。
ニコチン 依存性薬物は非常に強いので、ニコチン依存症を脱する方法もいろいろ開発されてきているので、スモーカーが辞めやすい社会環境が出ていたのではないかと思う。
要望書をもって行ったりするときに、1990年代は相手方もきちんと聞いてもらえるようになった。
禁煙、分煙がどんどん進んでいった。
タバコ問題情報誌は会員の会費、カンパで成り立っているが、なかなか厳しい状況の中で、やっているのでサポートを頂きながらなんとか26年間続いている。
公害問題でいろいろ取り組んだ関係で言うと、行政の壁、民間企業の壁が厚いが、煙草については都庁、国技館、会社、野球場、競技場等も禁煙になる。
仲間の方の協働でそういう社会を作り上げているという、面白さ、眼に見えて自分たちの運動の答えが出てきているという事が、長続きさせた大きな原因だと思う。
現在の喫煙率は成人喫煙者率 男性が32.2% 女性が8.2% 平均では19.3%
煙草に対する正しい情報も伝わってきたので自発的に辞めてきたので、日本も漸く先進国並みの社会環境になってきたのではないかと思う。
一番酷いのはパチンコ屋などでしょうか?
飲食店等はもっと喫煙規制をすべきだと思う。
先進国 は10数% (男女合わせて) 北欧3国は随分少なくなってきている。
2020年東京オリンピックへの運動は?
2000年以降 IOC、WHOで合意して受動喫煙防止条例を作るという事で、喫煙大国の中国北京でも受動喫煙防止条例はできたので、2020年までには受動喫煙防止条例を制定してほしいと思っている。
受動喫煙防止条例が制定されると、違反した場合には罰則規定のあるものを作ってほしいと思う。
マナー、モラルだけでは守れないと思う。
私自身が周りに対して健康被害を与えていた過去もあり、じくじたる思いがあるので、一人でも多く加害者に、被害者にならないように正しい情報を知った上で、国や自治体が法律、条例をきちんと作った上で、煙草の煙の解決策を模索して頂きたいと思いながら運動に取り組んでいます。
煙草の煙に悩まされない、煙草を辞めたいと思っている人が辞めやすい社会を作っていきたいと思っている。
77歳 渡辺さんは39歳の頃、1日60本のたばこを吸って居たんだそうです。
煙草の害についてのニュースを見たのを機にして禁煙をされました。
その後煙草の煙に悩まされている人と煙草を辞めたい人を救いたいと考えて禁煙運動をスタートします。
禁煙に関する情報誌をほぼ毎月発行していますが、家族の反対や資金不足等数々の苦難に直面したという事です。
渡辺さんはそれらを乗り越えて情報誌は今年で26年目を迎えました。
今後も生涯をかけて禁煙運動を続けるという渡辺に伺いました。
情報誌は、禁煙運動の報告とか、禁煙運動をしている医療施設の取り組み、体験談とか、等でA4サイズに8ページに 纏めている。
発行部数は1000部で購読者は、学校の先生、医者、弁護士、企業の経営者、一般の主婦など幅広く読んでもらっている。
禁煙運動を地元でいろいろ活動されている方が多い。
スモークフリーキャラバン いろんな団体とともに、全国各地を回る。
2010年に神奈川県で受動喫煙防止条例が出来て、兵庫県でも作りたいという動きが有り、東海道スモークフリーキャラバンと銘を打って、静岡を皮切りに、兵庫県までキャラバンする。
県知事、議会に受動喫煙防止条例要望書をもって出掛けました。 全国に展開。
厚生労働省が作った健康増進法、2005年に煙草規制枠組み条約(国際条約)の中でたばこに対する意識が進んだ。
3年間回って、地元の自治体に報告する。
大学の野球部の時代に19歳の時にたばこを吸い始めた。
1日60本を吸う様になる。(最後の数年間)
たばこも車も必要悪だと思いながら仕事をしていたが、スピード違反で捕まり免許停止になる。
その夜NHKでイギリスの国立医師会が1本吸うと、5分30秒寿命が縮まりますと言う放送があり、60本だと10年間寿命が短くなる事になり愕然とする。
1977年5月6日(放送を見た日)に断煙に踏み切る。
煙草をくわえて、この煙草に火を付けなければいいと思って、箱に戻すことを繰り返し、3カ月ぐらいそんなことをした。
疑似喫煙を煙草現物でやっていた。
他に煙草を吸いたくなったときには、深呼吸、歯を磨いたり、面白い本を読んだりビデオを見たりして気分転換をした。
辞めて、寝起きが良くなり、食事がおいしくなり、健康に良くなった。
お金がひと月 1万円の節約になった。
国際会議に会員のカンパで出かけて、海外の交流、情報を貰って国内に役立てることができたので非常に良かった。
煙草が無くてもストレスが無くなるという事はよくわかった、思い込みだったと思う。
世の中が段々変わってくるのが皆と実感できる楽しさ、面白さが、辞めて良かったと思う最大の実感です。
コピーライターの中田みどりさんが嫌煙権という絵本作りをやっていた。
1975年に「嫌煙権」という言葉を知った。(そのころはまだ煙草を吸っていた)
1978年2月18日 嫌煙権確立を目指す会が作られて、提唱者の中田さんから今日の司会進行をやってよと言われて、それがライフワークになるとは思わなかった。
1978年は喫煙率が男性は44.7% 女性は10%程度。
新幹線のこだま号に1車両しか禁煙車両は無かったし、病院の待合室は禁煙ではなかった。
嫌煙権に対する反響は手紙等が多くあり、この運動は期待されているなと痛感しました。
最初国会議員に訴えていこうと、国会議員にアンケートをやりました。
8名の議員の方が賛同していただいた。
当時の衆議院議員の登坂重次郎さんが公害特別委員会で厚生省に対してして、国立病院と療養所の待合室を禁煙にしてほしいと、要望して、五月に禁煙にする。
国が禁煙権を認めたという報道もあった。
運動がどんどん広がってゆく。
息の長い運動にしないといけないと思った。
1985年に煙草問題情報センターを設立、この時から煙草問題を解決する運動で、生計を立てようと決意。
家族からは反対されるが、妻を説得して継続する意思を固めた。
日本の遅れた状況を何とかしたいと思った。
1988年WHOから禁煙運動賞を受賞、同賞受賞者はカナダの厚生大臣、アメリカの公衆衛生局長官、予防癌学研究所の平山雄所長だった。
1987年に第6回世界会議が日本で行われて、国内の団体との連携をして連絡役を行ったのが評価されたのかと思う。
ニコチン 依存性薬物は非常に強いので、ニコチン依存症を脱する方法もいろいろ開発されてきているので、スモーカーが辞めやすい社会環境が出ていたのではないかと思う。
要望書をもって行ったりするときに、1990年代は相手方もきちんと聞いてもらえるようになった。
禁煙、分煙がどんどん進んでいった。
タバコ問題情報誌は会員の会費、カンパで成り立っているが、なかなか厳しい状況の中で、やっているのでサポートを頂きながらなんとか26年間続いている。
公害問題でいろいろ取り組んだ関係で言うと、行政の壁、民間企業の壁が厚いが、煙草については都庁、国技館、会社、野球場、競技場等も禁煙になる。
仲間の方の協働でそういう社会を作り上げているという、面白さ、眼に見えて自分たちの運動の答えが出てきているという事が、長続きさせた大きな原因だと思う。
現在の喫煙率は成人喫煙者率 男性が32.2% 女性が8.2% 平均では19.3%
煙草に対する正しい情報も伝わってきたので自発的に辞めてきたので、日本も漸く先進国並みの社会環境になってきたのではないかと思う。
一番酷いのはパチンコ屋などでしょうか?
飲食店等はもっと喫煙規制をすべきだと思う。
先進国 は10数% (男女合わせて) 北欧3国は随分少なくなってきている。
2020年東京オリンピックへの運動は?
2000年以降 IOC、WHOで合意して受動喫煙防止条例を作るという事で、喫煙大国の中国北京でも受動喫煙防止条例はできたので、2020年までには受動喫煙防止条例を制定してほしいと思っている。
受動喫煙防止条例が制定されると、違反した場合には罰則規定のあるものを作ってほしいと思う。
マナー、モラルだけでは守れないと思う。
私自身が周りに対して健康被害を与えていた過去もあり、じくじたる思いがあるので、一人でも多く加害者に、被害者にならないように正しい情報を知った上で、国や自治体が法律、条例をきちんと作った上で、煙草の煙の解決策を模索して頂きたいと思いながら運動に取り組んでいます。
煙草の煙に悩まされない、煙草を辞めたいと思っている人が辞めやすい社会を作っていきたいと思っている。
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