川口有美子(日本ALS協会理事) ・難病ALSの母の介護から学んだこと(2)
最後にはまぶたの開閉ができなくなる。
瞬きで意志で伝えることができるがそれすらできなくなる。(医師から言われる通りになる)
それでどん底の気持ちになって安楽死させなければとも思ったが、一方では母に対して否定的だったのが或る日を堺に肯定的になって、ちょっと距離を取るようになって、母の全体像が見えてきて、殺意が薄らいでゆくと、どういう風にこの体のコンディションを保とうかと、発想が変わって来て看護的な眼が出てきた。
バイタルをきちっと計って行ったら、毎日の体調が変化してゆくが、話しかけたことに対して母がちゃんと反応しているのが判った。
バイタル:血圧の上下、脈拍、顔の紅潮等。
母の動悸が烈しい時が有り、添い寝していたら、私も眠ってしまったが、動悸が直っていて、こういうことが利くのかなあと思ったりした。
植物も愛情込めて育てていると花が咲くが、母も蘭のように育てて行こうと思ってやっていたら、そうしたら凄く体調が判ってきた。
母が心配になる様なことを母に相談してはいけませんと看護師さんから言われた。
母は言い返せないので、皆自分の人生相談を母にするので、皆の秘密を母は知っていて、それを看護師さんが感づいて叱られた。
春の風が気持ちよく吹いてきたときには、ベランダに連れて行ったりして、身体に気持ちいい様なことを沢山しました。
一回先生に呼吸器を取れないからずーっと寝かせてほしいといったが、先生は母は頭がはっきりしているので、これを引っ張り出す方に向かうべきだとおっしゃった。
言葉を拾ってあげる事を考えないといけないと。
そうかと思ってそれが転機になり、大学に行くわけです。
呼吸器はずし派と読み取り派で、大学でも大激論だったが、最初は私は呼吸器はずし派だったが、先生との話の中で読み取り派の方に考えが変わって、私は読み取り派になった。
困っている人がいれば困っている人を助けるために何ができるかと考えることによって、科学が進歩してきた。
そういうひとたちを殺してしまったら、進歩は止まるだろうと思います。
困っている人を助ける方向に皆で協力して行ったり、皆のお金を費やすのが正しいと思う。
必死でその人は語りたいと思っているのであれば、拾ってあげられない私たちが未熟なんですね。
拾うためにはどうしたらいいかという方向に行かないと、人類は進歩しない。
可なりのことが体から拾えることが出来る。(体と対話してゆく それから8年になります。)
母は家の中心にいて、母は留守番ができた、ヘルパーさんがいてくれて、いつも誰かがいて、子供がいて、声をかけてくれる。
そういう事で母はおばあちゃんの役割をしていた。
母は、私が死ねば多分新しいおかあさんが来るので、健康なお母さんに育ててもらった方が孫たちも幸せだと、でも私は、お母さんは病気になった姿で生きてゆくのが子供達に取って一番教育になる、ドンドン悪くなっていったとしても、存在自体が子供達には大事だから、とにかく頑張って生きていてと、言ってしまうが、本人にすれば其身体で生きていくのは本当に辛いことだとは思います。
多臓器不全になって、体が細胞レベルで弱って来ているのが判って、最終的には家で亡くなった。
10年以上介護をして来たので、いつかこの日が来ると思って、頭の中ではシュミレーションが出来ているので、心の準備も出来ているので、きちんと自分たちだけで看取ることができた。
私も妹も「ありがとう」と言いました。 其時は涙は出なかった。
葬式では泣きました。
お棺の蓋を閉めて釘で打ちますが、あれがダメでした、そんなことをしたら出てこれなくなってしまうと思った。
体に対する愛着が凄まじくあったので、死体であっても母の体が焼けちゃうのが許し難かった。
其時はオイオイ泣きました。
ボイラーで焼かれるのが地獄の釜と思った。
母が頑張ったおかげで郵便投票が出来る様になったし、ヘルパーさんに勤務させたいと運動して法律ができたし、素人からヘルパーを養成するという事も母をきっかけにできたので、それが全国に広がってきた。
母が十字架に張り付けになったキリストと重なるんですが、どんなに辛かっただろうと思います。
難病の患者は辛いが、死んではいけないと思う。
自己肯定感は無くなるが、長く生きていくうちに何か役割を発見して、皆がそれに協力してくれる、必ずそういう言う風になってゆくのが人間の社会だと思う様になった。
90年代の後半ぐらいから呼吸器を付ける患者が凄く増えてきた。
2000年以降に介護の制度ができてきて、かなり日本の社会の中の重度障害の人たちの姿が見えるようになってきた。
日本は呼吸器が付けられるのが3割、他の国は1割以下とか1%いかとか、呼吸器をほとんど付けない。
日本はハッピーな患者さんたちが多い。
そういうALS患者の人たちがALSの新患へのパフォーマンスをして、元気になって、ということをしている。
2000年の頃に、オランダで安楽死法制化になった時に、オランダへALS協会から抗議のために呼吸器を付けて、命懸けで飛行機に乗って行ったこともある。
患者さん達が人間の限界に挑戦して、乗り越えてゆく事をドンドンやって行って制覇する快感がある。
2006年にALSを発症して3年後に呼吸器を付けて、現在日本ALS協会の副会長をされている岡部さんが、一人で暮らしていて、自分でヘルパーを育てたりしている。
岡部宏生さんからの手紙
「いろいろあるけど結構元気です。嬉しいことも喜びも沢山あります。
それを含めていろんなことが有るという事です。
きざに言うと、人の生き方がいろいろあるという事の体験者です。」
岡部さんは本当に自分は死んでしまいたくなるようないろんなつらい事ことがあって、あかるい文章が読めたという事は、私は感無量です。
自己肯定感が強くなって、自分を卑下していたのに、長生きしてくると、そういう風に言いだすというのは本当に素晴らしいことだと思う。
環境とか(体は悪くなってきてもそのままでいいよと言ってくれる様な)、人との関係性に依って自分を取り戻してくる。
岡部さんはALS協会の副会長として、各方面と交渉しているし、政治家とか政策立案者と話をして大切な法律や制度ができてゆく。
辛いことがあると、岡部さんにメールして相談したり、岡部さんのところで泣いた事もあります。
アドバイスを受けるとホッとしたりしてます。
治らない病気だけど、岡部さんはALSに勝利したと思います。
病気を知って最初は一番落ち込んでしまって自殺したり、安楽死ができる国があるがそういう法律を使って死んでしまったりとかあるが、それはもったいないと思う。
地方によっては介護環境の格差があり、自分を取り戻せない様なことがあるが、岡部さんの一番の目的は格差を無くすことではないかと思います。
自分の考え方と違った考え方をもっている人と付き合う事は宝でしょう。
違った考えを取り入れて、そうするとにっちもさっちもいかなかったのに道が開ける、そういう出会いが私の場合は多くて、あーっもう駄目だなあと思った時に、こっちに道が有ったと、開けてゆきます。
患者さん、その家族への支援は、情報の拡散です。
これはと思ったことは周りに伝える。
ALS協会は呼吸器を付けない選択も尊重する。
7割の人が呼吸器をつけないで亡くなってゆく。(本人が満足出来れば認めなければいけない)
ちゃんと説明をしないで呼吸器を付けない方に導引してしまう事があるので、その時はそれは違うでしょうと怒ります。
患者が公平に選択できるようにしてあげないといけない。(安心して呼吸器をつけてもいいという)
家族が大丈夫と言えるように、周りが一生懸命働きかけて家族を支えないといけない。
家族は支えられると、家族は安心して大丈夫だよと言えるようになるので、そこまで何とか、整えたい。
ALSから学んだことは、ありのままの自分を認めること、弱い自分を許すことでもある。
できない、できなくていいやとなった時に、先に進める。
患者さんがのたうちまわりながら、段々自分でもういいやと解除してゆくというのが、患者さんのチャレンジを見ながら、私も頑張るのを辞めなきゃと、いまだに思う。
最初の解除は自分で介護を仕切っていたが、それを止めてヘルパーさんに入ってもらったが、それが最初のまあいいやというものでした。
弱いという事は自由という事に近い。
出来ないことは出来る人にやってもらうという事は楽になるし、そうすると人と繋がってゆく。
自分を大切にできないと、人を大切にできないし、或る意味利己主義でいいと思う。
自分が大事と思う人ばっかりだったら、お互いに尊重できる。
自分の生きたい生き方が達成できる様な社会になってゆくと思うが、日本が一番考えなくてはいけないことだと思います。