吉野誠一(製茶園六代目) ・和紙を使って、名茶を守る
去年国際教育科学文化機関ユネスコの無形文化遺産に日本の伝統手すき和紙技術、岐阜県の本美濃紙、島根県の石州半紙、埼玉県の細川紙が登録されました。
埼玉県日高市で製茶業を営む吉野さん68歳は細川和紙を使って作る伝統製茶法を守り続けている数少ない製茶技術者です。
狭山茶産地では戦前まで畳ほどの大きさの木脇に厚めの細川和紙を貼って下から炭火であぶる火いれを行ってきました。
戦後は短時間で大量生産できる鉄板ドラム式が普及し、火加減が必要な和紙は使われなくなってきました。
吉野さんはこくのある伝統の味わいを残したいと、鉄板を5枚がさねの和紙に置き換えお茶の製造を続けてきました。
寒冷地に適したお茶の品種改良や国産紅茶の製造、葉が黄金色や紫色のお茶を育てるなど、地域のお茶の改良に努力を続けています。
狭山茶の産地にとって細川和紙が無かったら、昔からお茶ができなったというぐらい重要な和紙だった。
畳一枚分の大きさの高さ20cmの枠の木枠の中に全面細川和紙を張って、そこの上でお茶を造る。
下から炭火で熱して、細川和紙の上で手でもんで作っていました。
現在は機械化されて製造面では細川和紙は使わないが、狭山には狭山火入れという独特の火入れ方法が有るので、和紙の上でじっくりと転がしながら入れてやる、和紙火入れ。
昭和50年代に火入れの機械を発明されて、現在残っているのはごくわずかです。
昔の焙炉(ほいろ)の味がすると言われて、これは続けなくてはいけないと思って、能率は悪いが本当の狭山の和紙火入れを残したいと、鉄板の代わりに和紙を用いて、時間を3~4倍かけないと火は入らないが、柔らかいまろやかなお茶に仕上がってくる。
和紙は高価で、すでにある和紙を使った手紙だとか、本だとか和紙のものを代用に昔は使っていたと聞いていた。
若山牧水の手紙を使ってしまったとの事ですが?
私の妻の実家が若山牧水のお祖父さんのでた家で、(所沢) 牧水が学生時代に長く逗留していたり後に奥さんを連れてきたりして、お礼の手紙が一杯あったというんですが、その手紙も一緒に細川和紙の代用に使ってしまったそうです。
若山牧水のお祖父さんは医者になるために長崎に行って宮崎で開業してもどってこなかった。
牧水はお祖父さんの家を訪ねようと探して所沢に長く逗留したそうです。
「飲む湯にも 焚火の煙 匂いたる 山家の冬の夕餉なりけり」
牧水の詠んだ狭山茶に関する石碑が有る。(所沢市内の神米金)
屋敷の周りには全てお茶の木が植わっていた。
茶畑、桑畑、普通の畑が有った。
狭山はお茶が美味しくて、農家の茶を家で製茶をしていた。
5代目の時に手揉みから機械化になった。
一般の家庭で飲むお茶は販売ができたが、二番茶の販売ができなくて、販売の方法を勉強をして
販売ができるようになった。
狭山のお茶は全量自分で販売するという形は、九州から静岡まではないパターンです。
宇治茶、静岡茶は暖かい地域なので4回収穫ができたが狭山は2回しかできない。
香り宇治、色は静岡、味狭山 (味は狭山でとどめさす)
年間2回しか収穫しない事と、冬は寒さに耐えるように養分を一杯蓄えて冬を越すので、葉肉は厚いが濃厚な味の出るお茶が飲まれるようになって、飲みごたえのあるお茶が狭山茶だと思っています。
狭山かおりという品種が有る。 品種改良の一番は耐寒性のある品種でした。
5月 新茶の香りがするもの 夏は爽やかな味を出す品種を使う。 冬は濃厚な味のする火の強いお茶にする。(細川和紙を使う)
和紙を使ったものはまろやかさが全然違う。
国産紅茶を研究して販売をしている。
見学会で小学生から紅茶はつくっていないの?と質問を受けて、それが耳に残っていた。
17,8年前に、ネパールから来た留学生が紅茶の技師だったが、国に帰ったら緑茶をやりたいと言っていた。
家に何度も足を運んできていて、緑茶の事を教えるばっかりではつまらないので、紅茶も出来ないかと言ったら、教えてもらってそれがきっかけになった。
試験場に行ったら、いい紅茶品種があって、40年前交配した良い品種が有ると言われて、指し木をしてそれから10年間はお茶の製造はできないので、留学生から教えてもらった現存の品種の中から研究を進めた。
紅茶を作る情報を提供して、全国的に紅茶を作る事になる。
子供のころに、祖母がお嫁に来た時に、5月になると家には黄色く芽が出るものが有ると教えてくれた。
一枝だけだったが、それを増やす技術が無かった。
指し木を始めて、増やしていって一枚の畑にしていった。
玉露の味がするので、これならいけると思って始めた。
目で綺麗で飲んでおいしくないと駄目だという事だが、いけるという事で品種登録した。
煎茶道に使うには喜ばれる。
もうひとつ赤いものを作りたいと思って、九州で開発されたサンルージュという品種が有るが、真っ赤な芽が出る。
もうひとつ紫色の芽が出るお茶が有るが、これは極秘です。
農家なので「道」の付くものは何にもやっていなかったので茶道をやるようにいわれて、冬場に毎週茶道のお稽古にいかしてもらった。
違った世界を勉強させてもらって人間形成にかなり役立ったと思います。
いろんな方から知らないことを教えて頂ける、皆さんから可愛がって頂けるというのは茶道からの影響が大きいです。
挫折を感じたのは天候、気温ですね。
温度の関係でお前のところではお茶はできないよとか、5月に霜が降りると一晩で真黒になってしまう事が有るが、何回も味わった。
今は設備が良くなって安定した経営になってきました。
寒さに耐える品種改良が一番苦労しました。
38年、48年、58年は青枯れで(寒害)、全く収穫不能が有りました。
農業技術研究所で2年マイナス15度ぐらいの茶畑で調査してもらって、枯れた木と耐えられる木が有るので、生きる木をどうにかすれば出来るのではないかとアドバイスを頂いた。
新しい品種をものにするのは5年、10年掛かる。
バニラの香りがするお茶の木を造りたいと思って「夢若葉」という品種を作っていただいたので、そういう木を開発している。
「おくはるか」という桜餅の香りがする木が見つかって昨年苗木を植えたばかりなので5年先になると思う。
これからは香の品種改良ではないかと思って一生懸命取り組んでいる。
試験場と共に取り組んでいます。
苦労はやっても、それを乗り越える努力をすれば、必ず報われるんだなと思って、コツコツといろんなことを積み重ねて諦めてはいけないというのが現状で、味、香、探し求めれば必ずいつかは見つかると思ってます、継続が一番大事だと思います。