2015年4月11日土曜日

賀川浩(サッカージャーナリスト)       ・フィールドを見つめ伝えて(前編) 

賀川浩(90歳のサッカージャーナリスト)       ・フィールドを見つめ伝えて(前編) 
神戸市出身の賀川さんは大正13年生まれの90歳、旧制神戸一中、旧神戸商業大学でサッカー選手として活躍しますが、太平洋戦争中は陸軍の飛行士の特別操縦見習士官になります。
朝鮮半島の基地で特攻隊としての訓練を受けますが、出撃前に終戦を迎えます。
復員した後も大坂クラブで天皇杯で準優勝するなど、サッカー選手として活躍した後、昭和27年に産経新聞社に入社、運動部記者の道に進みます。
サンケイスポーツ編集局長を経て、平成2年からフリーのサッカージャーナリストになった後も、専門紙などで執筆活動を続けました。
この間ワールドカップの取材が10回、60年を越えるサッカー取材の実績を認められて、今年の1月には日本人としては初めて、国際サッカー連盟FIFAの会長賞を受賞しました。
FIFA会長賞は選手以外から選ばれる。
神戸市立中央図書館の1室には賀川さんの蔵書など5000点が寄贈されて、神戸賀川サッカー文庫が
開設されています。

1月13日の表彰式にチューリッヒに来てほしいとの連絡が有った。
前年がIOC会長、その前がベッケンバウアー、その前がペレ、ジャーナリストは初めてです。
バロンドール 前年の世界優秀選手を選ぶ。
1956年フランスサッカー専門誌「フランス・フットボール」が創設した。
バロンドールそのものは本来男子ですが、それ以外に女子の優秀選手、前年のベストゴール、ベストイレブン、優秀監督、男子チーム、女子チーム、会長賞が有る。
昔は表彰式を大々的に報道する様な事はなかった。

受賞の理由としては、長く62年間サッカーにかかわって来て多くの日本の人たちをサッカーに向けさせて、同時に技術戦術に触れる記事を書き続けて、日本、アジアのサッカーの急速な発展に貢献したという様なことでした。
大先輩は1921年 第一回天皇杯で優勝した時のキャプテンで、後に朝日新聞のサッカー記者になった
山田午郎さんとか大先輩を始めずーっと優秀な先輩がいました。
FIFAにとっては日本サッカーが急速に大きくなって、レベルも上がったという事はめでたいことだし、日本の様に力が有る国でサッカーが盛んになった事はFIFAにとってプラスになっている。
それに多少ともメディアが関わったんではないかと、その中で一番年上だから賀川でいいなろうという事になったのではないか。

サッカーとの出合いは?
御影師範学校、姫路師範学校(先生養成校)等はサッカーが盛んで、大坂ではあまり盛んではなかった。
甲子園は大正13年にできたが、当時は野球はメジャーというようなことはなかった。
甲子園では春と夏に開催されていただけだった。
神戸では春から夏は野球、秋から冬になると、小学校ではフットボールだった。
神戸市の雲中尋常小学校時代からサッカーに親しんだ賀川さんは、昭和12年に兵庫県立第一神戸中学校に進みます。
サッカー部には2つ上の学年に兄、賀川太郎がいました。 
1つ下に岩谷俊夫が入学してきます。
戦後1950年代にサッカー日本代表の主力選手たちが活躍していました。

兄がキャプテンをやっていて、私はアシスタントマネージャーをやっていて、雑用係だったが、控えのキーパーにボールを蹴ってやるという仕事ができて、一日の60~100本ぐらい蹴っていた。
昭和15年 われわれのチームは全国大会予選に神戸3中に負けて、秋にも負けた。
朝鮮半島の代表の普成中学に夏の全国大会の決勝に当たった時に、神戸3中は4-0で完敗だった。
昭和16年8月 兵庫県の大会で優勝する事ができた。
ヒットラーがロシアに攻め込んだ年で、日本陸軍関東軍特別大演習をおこなった。
満州に物資と兵員を増強するという名目でドンドン送ったので、東海道線はそれでいっぱいで、その年は朝日新聞全国高校野球も無し、毎日新聞の全国中学サッカーもなかった。
段々物資が無くなってきて、ボールの配給がはじまっていた。
ボールの修繕を行う様になり、段々ボールも無くなるようになる。
昭和18年9月に理工学系を除いて、文化系は兵隊に行くようになった。
昭和19年4月に徴兵検査が有り、甲種合格と成り、飛行機乗りの検査がありそれに通って、陸軍特別操縦見習士官と成り、昭和19年6月1日に入る。
宇都宮陸軍飛行学校に入り訓練が始まる。
昭和20年春に朝鮮半島の海州 (現在の北朝鮮南西部) 迎陽の飛行場に転属、4月30日には特攻隊に配属される。

19年夏にはサイパン陥落、11月にはレイテ沖海戦 武蔵に搭乗していたサッカーをやっていた友人も戦死する。
4月30日付けで413飛行隊(特攻隊)に配属されて、合同演習が6月から始まる。
則安少佐のもとに飛行演習をするが、後の自分がフットボールを人に教えたり話したり時の技術の習得がどういうものだという事がこの演習から判って来た。
練習をやっている間は、恐怖という様な事は考えていなかった。
7月に展開する事になっていたが、8月になったら朝鮮半島の一番先端にある飛行場が有るので、朝鮮海峡に来る相手にぶつかることになっていた。
8月15日になり終戦を迎える。
南線に移動する事になり、直後に飛行場にソ連の軍隊が入ってきた。
地上部隊は移動していなかったので皆シベリアに連れて行かれた。

2カ月後帰国する。 10月中旬に山口県の港、仙崎にもどってくる。
貨車に乗り込んで京都に帰ってきた。(3回の攻撃で6月5日の神戸は完全に無くなったぐらいなので、それは聞いていた)
両親の実家が共に京都だったので、京都にもどってきた。
帰って来て3日後にはがきが来て、次の日曜日に集まるからバックをもって来いという内容で、関西のサッカーの復活の第一声だった。
学校へ行くつもりはほとんどなくて、神戸大学を辞めようと思っていて、とりあえずサッカーの練習はしていた。
21年2月11日 建国建国記念日の時に、西宮で全関東対全関西の社会人の試合、関東学生選抜対関西学生選抜の試合が有った。
試合に出る気はなかったが、学生選抜の練習には顔を出していた。
名ウイングの先輩(キャプテン)が俺今日は足が駄目なのでお前やれと言われた。
試合に出て新聞に名前が出てしまって、学校にはこないのに、どうして試合に出ているんだという事になってしまった。

4月に学校をやめて、サッカーも辞められると思っていたが、声がかかって来て続ける羽目になった。
1951年 スウェーデンヘルシンボリのクラブチーム来日時に依頼され京都新聞に記事を書いた。 
夕刊京都にスウェーデンと日本との違いなど特集を書いた。
それを石割?さんと言う京都新聞の記者が産経が今ボールゲームの記者を探しているので、この記事をもって行って見せるという事で、そうしたら木村象雷運動部長が会いたいという事だった。
12月に会って産経に来いという事になり、1952年1月から仕事を始めた。
朝日新聞に大谷四朗という神戸一中の先輩が入っていて、こういう仕事も面白いのかなあと思った。