2015年4月3日金曜日

鈴木大地(日本水泳連盟会長)    ・挫折が育てた水泳人生

鈴木大地(日本水泳連盟会長)    ・挫折が育てた水泳人生
ソウルオリンピック100m背泳ぎで金メダルを獲得したのが1988年21歳の時の事、当時の日本の競泳界では16年ぶりの金メダルでした。
しかしその4年後に引退を表明、母校の順天堂大学で体育学、スポーツ医科学の研究をおこない医学博士を取得しました。
現在は順天堂大学の教授として学生の指導をおこない、日本水泳連盟の会長も勤め水泳界を支えています。

自分自身最大限の努力をして来たので、どんな結果が出ても自分の実力だろうと言う事で納得する形でやって来たので、悔いはなかったです。
リラックスしてレースが運べたのかなと思います。
バルセロナオリンピックの代表選考会前に引退。
オリンピックでメダルを取るという事は、いまではいろんな選手が目標にして高い意識の中でやっているが、当時はだれも何十年と取っていなかったので、どうやってトレーニングをしてどうやって実現するのか、が判らなかった。
出来るだけハードトレーニングをやった、見本は無かった。
自分の体が壊れるぐらいまで追い込んでいたので、ここが自分の限界、臨界点という事だった。
実際身体も壊してしまった。(腰痛)
プールの練習以外の筋力トレーニングも手を抜かずにやってきた。

オリンピックの目標にしていた事が自分なりにやる事はやったと満足した部分はあった。
大学の教員になろうと思っていたので、オリンピックが終わって1年間は練習らしい練習はやっていなかった。
1年後アメリカに行ってトレーニングを始めてみると面白くなって、続ける様な形になって行った。
楽しいが「楽」になってきてしまって、楽して勝とうというような思いがあり、調子が上がらなくなってしまって、バルセロナオリンピックの選考会の前に辞めて、競技生活にピリオドをうった。
次の人生のスタートだと思ってそれなりにわくわくはしていた。
バルセロナオリンピックは解説者としていかせてもらった。
いろんなことに勉強不足だったので。もっと自分が勉強した後に、そういった仕事につかなくてはいけないのかなと思った。
暫く本業にすることは置いておいた。

最近はプロの選手はいるが、当時は認められなかった。
右肩上がりで選手生活を続けるのは、まず難しい。
体力の衰え、気力の衰え、怪我、故障、スランプだったりとかで一番で居続けることはないんですね。
そこに結構意味が有って自分の人生を考えるわけです。
浮力と推進力で発揮しながら進んでいくわけですが、体組成が変わってゆくので、休んだりしていたので、泳ぎとの感覚がマッチしていなかったと思う。
休み過ぎてしまったのがいけなかったと思う。
楽をしてはいけない、毎日コツコツやらないとしっぺ返しが来るんだと思う。
ただその時はそうするしかなかったと思う。

最初順天堂大学の教員になりコーチもやっていた。
外国に勉強させていただく機会が有り、外国の人との話、意見交換して行く中で、自分に足りないことが判って来て、いろいろ勉強しないといけないと思う様になった。
コロラド大学でトレーニングの勉強をして、一度帰って来て1998年、ハーバード大学の水泳部のゲストコーチとして現地に行った。
学業とスポーツをどう両立させているのか、見てみたいと思って行った。
イエール大学、コロンビア大学と3校見に行ったが、2校は是非にという事だったが、ハーバード大学はそんな話は全然なくて、最後は押しかけみたいな形で行った。
最初は試合に行っても顔の見分けがつかなくて生徒にどんな状態だったのか問われても答えられなくて苦労した。
アメリカの選手は全体として積極的ですね。

スポーツも一生懸命やるが学業も一生懸命にやる。
時間もうまく使う。
ハーバードで2年のゲストコーチを終了して、母校の水泳部の指導と教員生活に戻った。
夜の練習から朝の練習に切り替えて、帰って来て2年後に関東学生選手権でチームで総合優勝したことが有る。
選手の晩年時代の挫折経験が人を教えるときにいろいろと役立った。
何を言ってもしょうがない時にはこちらが我慢しなくてはいけない時もある。
2013年6月から日本水泳連盟の会長になる。
東京オリンピック ハード面や、選手の育成が刻々と迫ってきている。
8月14日 水泳の日 いろいろな競技を知ってもらう。
水難事故の防止の啓発。
水泳は自分の弱い身体を強くしてくれただけでなく、自分の世界を広げてくれたので感謝している。
水泳界に恩返ししたい。